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 (11日、高校野球北福岡大会 嘉穂東5―1新宮)

 義眼のエースの夏が終わった。新宮の荒川塁投手(3年)は、練習中に打球が当たって左目を失明。内野手から未経験の投手に転向した。義眼と防具のサングラスと背番号1をつけて臨んだ夏は、短く、熱かった。

 前の投手が連打を浴びた七回裏、なお2死一、二塁のピンチで、右腕の荒川がマウンドに上がった。少しでも打席が右目の視界に入るよう、プレートのぎりぎり手前に立つ。マウンド左側でリードをとる一塁走者の動向は、目ではなく耳を澄まして探る。

 昨春は、主軸を任される期待の内野手だった。悲劇は昨年6月の実戦練習。二塁走者だった荒川は、快音を聞いて走り出した。直後、ライナー性の打球が左目を直撃。眼球破裂だった。一筋の望みをかけ、眼球を縫い合わせ眼圧を戻す手術を計4回したが、視力は戻らなかった。

 バランスがとれなくて立つこともできない。遠近感がつかめず、箸を使うのも一苦労。医師は「野球なんて絶対できない」。

 選手をあきらめかけたとき、他県で同じように片目を失明した選手が投手を務めたという記事を読んだ。練習に復帰した昨冬、藤野健太郎監督に直訴した。「投手としてやれるところまでやらせてください」。本やネットでむさぼるように投手の勉強をし、毎日100球以上を投げ込んだ。

 速球は130キロ台半ば、4種の変化球を操るまでに成長。3月には練習試合で、久々に左中間を破る三塁打を放ち、チームメートは一人一人握手して喜んでくれた。今春に背番号1を言い渡された時のうれしさは忘れられない。

 この日、荒川は同点に追いついてから登板するプランだった。思わぬピンチでの登板に、「自分が自分じゃない気がした。気持ち作りの面で、投手として未熟だった」。四球を与えて降板。投じた球はわずか4球だった。

 最後の夏を終えて思い出すのは、絶望のふちに希望をくれた記事のこと。「僕が投げられたことが、身体的ハンディがある人に少しでも力を与えられたら」(狩野浩平)