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 山形県河北町の旧家から、112年前に行われた高校野球の試合のスコアブックが見つかった。のちに野球殿堂入りする早稲田大学野球部のエース河野安通志(こうのあつし)らが山形へ指導に来たことが分かる記録もあった。当時は、山形の野球の黎明(れいめい)期。専門家は「貴重な資料」と話している。

 B5判のスコアブックは、1906(明治39)年7月から07年6月までの、他校との試合や校内学年対抗戦など24試合が記録されていた。アウトは「×」、残塁は「S」の表記方法。旧制山形中学(現・山形東高)野球部OBの旧家で見つかり、山形地区野球連盟記録放送部(角川(つのかわ)誠一部長)で保管されていた。

 ページを開くと、1906年8月2日に山形中が荘内中(現・鶴岡南高)と対戦し、7―3で荘内中が勝利した試合が記されている。スコアには英語で「Writing by K●(oの上に-)no and Tabe(コウノとタベが記した)」、審判員の欄に「Hashido(ハシド)」とある。

 山形東高野球部史によると、この年の7月末、早大野球部主将の橋戸信や河野、田部信秀の3選手を招き、1週間ほど指導を受けた。早大野球部は前年に日本のチームとして初めて米国に遠征したばかり。帰国後、最新の技術や用具の普及に努めた。

 旧家からは、米国遠征後に橋戸が著した「最近野球術」の初版本も見つかっており、野球の歴史に詳しい高知大学地域協働学部の中村哲也准教授は「本を読んで感銘を受けた山形中が、橋戸らに教えを請うたのでは。早大側は主将とエースが訪れるなど力が入っている」と話す。橋戸は59(昭和34)年、河野はその翌年、野球の発展に貢献した功績で野球殿堂入りしている。

 野球殿堂博物館によると、1896(明治29)年、旧制一高(現・東京大)が横浜の米国人チームを破ったことが広く報じられ、野球人気に火がついた。学生野球の選手らが母校や地方の旧制中学を訪れ、野球の指導を行うことがよくあったという。同館の学芸員は「橋戸や河野の訪問もその一例だろう」と指摘。「後に野球殿堂入りする河野自身が若いころにつけたスコアは、貴重な資料」と話す。

 全国高校野球選手権大会は100回を迎えた。角川部長は「スコアブックを野球殿堂博物館に寄贈したい」と話している。(西田理人)

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