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 亡くなった松下康雄さんは、絵に描いたようなエリート官僚だった。旧大蔵省(現・財務省)で主計局長から事務次官へ上りつめ、都銀トップに。1994年に日本銀行総裁に就く。

 強烈なリーダーシップで組織を引っ張るタイプではなく、どちらかといえば調整型リーダーだった。それでも、大きな決断を求められる場面がたびたびあった人生だった。

 請われて頭取となった太陽神戸銀行では三井銀行との合併を決めた。誕生した太陽神戸三井銀行はその後合併などを経て、現在は三井住友銀行になっている。

 日銀総裁としての大きな決断の場面は、97年秋の金融危機で、山一証券の破綻(はたん)処理を巡り政府・日銀が揺れたときだ。まだ巨大金融の破綻処理制度がなく、処理は手探りだった。

 焦点となったのが、顧客への払い戻しなど当面必要な資金の工面だった。供給できるのは日銀だけだが、決済機関ではない証券会社に特別融資(日銀特融)はできない、というのが当時の日銀の見解だった。

 しかし巨大証券が倒れれば市場はパニックに陥る。払い戻しや決済を混乱なく進めることが必要だった。

 総裁のもとに集まった幹部の会議では、特融を出す、出さないで意見が真っ二つに割れた。激しい議論を最後に引き取ったのが松下総裁だった。「私の責任で特融は出します」

 その後の大手銀行への危機の広がりをみれば、無用の混乱を防いだ特融の意味は大きかった。

 その4カ月後、松下氏は日銀幹部の接待汚職事件の責任を取り、任期半ばで辞任した。最後はさばさばした表情だったという。部下たちにこう言って去っていった。

 「総裁ってのはね、こういう時に責任をとるためにいるんだよ」(編集委員・原真人

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 財務省は、元日銀総裁で旧大蔵事務次官などを歴任した松下康雄さんが20日に死去したと発表した。葬儀は近親者のみで行った。お別れの会を開く予定はないという。弔電は財務省大臣官房秘書課総務係(東京都千代田区霞が関3の1の1、電話03・3581・4111、内線5306)で受け付ける。