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 原爆投下直後の広島の病院で顔にやけどを負った少年と治療する医師を撮った写真が、来春リニューアルオープンする広島平和記念資料館本館(広島市中区)の常設展示に加わる。核兵器のむごさを伝える医療現場の記録として何度か展示されたことはあったが、少年や医師の名前などの詳細はわからなかった。朝日新聞の取材でこの夏、医師の名前が分かり、同市在住の娘が「あの日の父」を語った。

 顔全体のやけどが痛々しい少年の目の辺りを、めがねをかけた男性医師が手当てする情景。原爆投下から4日後の8月10日、広島赤十字病院(現広島赤十字・原爆病院)で、朝日新聞の写真記者の故・宮武甫(はじめ)氏が撮影した。

 宮武氏は陸軍の調査団に同行して広島に入り、壊滅的な被害を受けた街を撮影した。この病院を訪れた時の様子を1982年の手記にこう記す。

 顔や体を焼かれ、衣服もまともにつけていないひん死の被爆者があふれていた。言葉にならないうめき声が広い部屋に充満し、枕元に置かれた水のビンすら自分の力では手に取ることができない有り様だった。

 広島赤十字・原爆病院によると、病院は当時、爆心地から約1・5キロにあり、医師や職員らは院外にいた者も含め51人が死亡、250人が重軽傷を負った。市中心部で焼失を免れた数少ない病院だったため、治療を求めて患者が殺到した。

 この写真は、来春一新される資料館本館の入り口に掲げる写真の候補が検討される中で、光が当たった。朝日新聞が同病院や市医師会などを取材し、医師は当時産婦人科医長だった故・永田幸一さんとわかった。

 長女の陽子さん(72)は現在も広島市東区在住。記者が写真を見せると息をのみ、しばらく見つめた後、「これは父ですね」。

 陽子さんによると、永田さんは原爆投下当時、病院内にいて被爆した。

 「ちょうど回診の途中で廊下に出た時だったようです。閃光(せんこう)が走り、病室の窓ガラスは粉々に。『もし病室にいたら、無数に割れたガラスが体に突き刺さっていたかもしれない』と父は話していました」

 被爆後の病院のことは、あまり話したがらなかったという。「理由ははっきりしませんが、前日に院長から早めに登院するよう指示されたそうです」とも回想した。

 永田さんは戦後も広島赤十字病院で働き続けた。子宮がんの治療・研究で知られた存在で、国内外の学会に熱心に足を運んでいたという。

 「まるで古武士のようでした」と父の仕事ぶりを語った。夜遅くに病院から呼び出しを受けても嫌な顔一つしないで家を出た。「仕事には一途な信念を持っていました」。68年に退職し、広島市東区で開業した。

 88年に85歳で亡くなった。陽子さんは「父は天寿を全うすることができました。でも、あの少年はその後どうなったのか、それが気がかりです」と話す。

 資料館本館のリニューアルに先立ち、東館で原爆投下直後の広島赤十字病院による救護活動がテーマの特別展が開催中で、この写真も展示されている。資料館の学芸員は「多くの子どもが原爆で被害に遭ったことを伝えるのにふさわしい」と写真を評する。

 広島赤十字・原爆病院でも6日に慰霊式があった。原爆の爆風を受けてゆがんだ鉄製の窓枠が残された壁の前で、職員ら約150人が午前8時15分に黙禱(もくとう)を捧げ、慰霊碑に花を手向けた。(松崎敏朗)