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 夏の高校野球の開幕試合。始球式のボールは空からやって来る。5日開幕の第100回記念大会でも、阪神甲子園球場の上空を飛ぶ航空機から、各地で戦ってきた球児の思いを乗せてグラウンドへと舞い落ちる。

 今大会で朝日新聞のヘリコプターから始球式のボールを投下する役目を担うのは、航空部の飯野祐平整備士(29)。元球児で直方(のおがた)(福岡)で甲子園を目指したが、けがに苦しみ、チームも福岡大会で敗退した。入社2年目で、甲子園でのボール投下は初めて。夢の舞台で注目を浴びる。「投下役になってうれしい半面、プレッシャーも感じていますが、空から『ストライク』を投げ込みます」と意気込む。

 6月23日に沖縄と南北北海道を皮切りに始まった地方大会は、100回を記念し、過去最多の56大会が行われた。期間中には開幕試合のほか、決勝なども含めて、28都府県延べ30球場でボールが投下された。

 初めてボール投下があったのは1923年8月16日、鳴尾球場(兵庫県西宮市)であった第9回全国中等学校優勝野球大会だった。甲子園球場が完成する前年のことだ。大都市間で初めて小型荷物の定期航空輸送を手がけるようになった本社機が、入場行進の上空で他の二つの民間航空会社の飛行機を加えた計8機で祝賀飛行を披露し、ボールを投下した。

 カメラマン兼投下係として本社機に搭乗した故・長谷川義一の手記によると、白布で包んで小型パラシュートを着けたボールは横風に流され、球場のはるか外へ落ちてしまった。だが、「拾得された方は鳴尾球場野球大会本部に」と書いておいたため、拾った人が届けてくれて始球式に間に合ったという。

 現在は、落下速度を抑えながらも横風に流されないよう、ボールは紅白の帯をつけた社旗と結ばれ、高度約150メートルから、落下中に旗が開いて空気抵抗が増すよう投げ下ろされる。

 甲子園では「浜風」が難敵だが、ヘリを操縦する機長が地上の旗のはためきや周囲の煙も見ながら風を読み、投下役は方向、強さを調整して投げる。

日本の航空史を映す

 投下に使用される機種の移り変わりは、日本の航空史を映す。33年の19回大会では、ヘリの前身といえる回転翼付きの「オートジャイロ」が登場し、注目を浴びた。23年にスペインで開発されたオートジャイロは、飛行機の上に大きな竹とんぼを取りつけたような姿で、滑走距離の短さが特徴。低速で安定した飛行が可能なため、欧州では滑走路がない地区の短距離輸送やスポーツ取材用として当時急速に広がった。

 32年10月に国内の民間機として初めて導入されたオートジャイロの試験飛行の模様を、同29日付大阪朝日は「空の愛嬌(あいきょう)者 朗らかに快翔(かいしょう)」の見出しで伝える。25メートルの滑走で離陸でき、最低速度は時速45キロ、最高は同167キロだったという。

 37年4月、本社機の三菱雁(かりがね)型「神風号」は東京・立川―ロンドン間を94時間で飛行する世界最速記録を樹立。同年の23回大会で再び飛行機がボール投下に使われた。だが、戦時体制下で41年に大会は中断され、そして敗戦。進駐した連合国軍総司令部(GHQ)は日本の航空活動を禁止した。46年に再開した28回大会から51年の33回大会まではGHQ占領下にあり、米軍機でボール投下をしたこともある。

 56年、38回大会で本社が導入したヘリが初めて甲子園の空に現れた。「ペンギン」の名で同年冬から第1次南極観測隊に参加。観測船「宗谷」の進路の偵察や基地との連絡に活躍した。この時期を境に、航空取材の主役は飛行機からヘリに移っていく。

 58年に沖縄代表が甲子園に初出場。だが、米国施政下の沖縄大会では、ボール投下が困難だった。64年、46回大会の地方大会の開会式でボール投下をするため、本社プロペラ双発機「東風(こちかぜ)」が沖縄へ飛んだ。だが、米軍や沖縄高等弁務官事務所の許可が出ず、引き返す羽目に。当時の本社航空部員は「あとは沖縄だけ、と張り切って出かけたのに、やり切れなかった」と社内報に記す。

 今大会で甲子園上空にやってくるのは本社ヘリ「あかつき」。イタリア製の新型ヘリAW169だ。そこから投下されるボールは記念行事「100回つなぐ始球式リレー」で元大リーガーの松井秀喜さんが投げる100回目の始球式に使われる。飯野整備士は「球児の思いや気持ちを代表して投下したい」と話している。(河原一郎、編集委員・永井靖二)

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