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 広島県内の各地で西日本豪雨災害の傷痕が残るなか、迎えた「原爆の日」。被爆者たちはそれぞれの場所で、平和を祈った。

 6日の朝、広島県坂町のJR呉線小屋浦駅に近い原爆慰霊碑に、被爆者や遺族ら20人が集まった。原爆投下時刻の午前8時15分に手を合わせた。

 西日本豪雨で背後のがけが崩れ、慰霊碑は大量の土砂や倒木に埋もれた。土砂を取り除くと、幸い碑に大きな損傷はなかった。

 1987年に建立された碑には、93人の名前が刻まれている。原爆で広島市中心部は壊滅。爆心地から10キロほど離れた小屋浦にできた臨時救護所に運ばれて、亡くなった人たちだ。

 近くに住む西谷敏樹さん(72)は「戦争のむごたらしさを後世に伝えたい」と考え、3年前から慰霊碑を管理してきた。

 原爆投下の翌日、小屋浦から比治山(現・広島市南区)の実家へ向かった母親の胎内で被爆した。「両親からよく聞かされた。死体のにおいが充満し、生き地獄のようだった、と」

 支部長を務める「坂町原爆被害者の会」は、高齢化と後継者不足で7月に解散した。町内の別の場所で毎年開いてきた100人規模の慰霊式も取りやめた。

 今回の被災で慰霊碑も土砂に埋もれてしまったのを見かね、かつて碑を建立した同県海田町の田川房雄さん(77)が2日間かけて重機で土砂をかき出した。「奇跡じゃよ。あれだけの土砂崩れで無事だったんじゃから」と喜ぶ。「この下に眠る方の思いが慰霊碑を守ってくれたんじゃろね」

 きれいになった碑の前で6日に慰霊式をしたいと、支部のメンバーに呼びかけた西谷さん。「この日には手を合わせたいという気持ちがあった。こうして集まれて本当にうれしい」。2歳で入市被爆した同じ小屋浦の二川(にかわ)清司さん(75)は感慨深げに話した。西谷さんも「若い人たちとも一緒になって、碑を守っていきたい」と話していた。(高橋俊成、光墨祥吾)

「穏やかな日々に戻りたい」

 坂町小屋浦の被爆者川崎友義さん(86)の自宅は、西日本豪雨で半壊した。午前8時15分、避難所になった町内の福祉施設で黙禱(もくとう)し、原爆と豪雨災害の犠牲者たちを追悼した。

 広島二中(現・広島観音高)の2年生だった1945年8月6日朝、ひどい腹痛で広島市内での勤労作業を休んだ。自宅にいると大きな爆発音がして、海の向こうにキノコ雲が見えた。市中心部の建物疎開に出かけた1年生は、320人以上が犠牲になった。

 翌朝、おばの安否を確かめに市内に入り被爆した。赤ん坊を抱えた女性の遺体を目にし、「あの光景は今でも忘れない」と話す。

 翌9月には、3756人の死者・行方不明者を出した「枕崎台風」が小屋浦も襲った。目の前の天地(てんち)川があふれ、自宅は腰の高さまで水につかった。母と姉、弟の4人で隣人宅に避難した。

 そして先月の6日。天地川の氾濫(はんらん)で自宅に土砂と濁流が流れ込んだ。何も持たずに、隣の息子宅の2階に妻と避難した。「窓のすぐ下まで水が迫っていて怖かった」。小屋浦では、15人が亡くなり、1人の行方が分からない。

 自宅にはまだ多くの土砂がたまっている。「原爆も水害も、もう二度と経験したくない。早く穏やかな日々に戻りたい」と話した。(高橋俊成、光墨祥吾、大滝哲彰)