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 朝日新聞長崎版で2008年8月に始まった連載「ナガサキノート」。3500本を超す記事で、被爆の実相を様々な角度から伝えてきました。一方で、被爆者は高齢化し、核をめぐる国際情勢も楽観を許しません。そんな現状をどう見つめればいいのか――。かつて取材した記者が、特に心揺さぶられた人たちを再訪しました。

 原爆が投下された日、友人と生死を分けた。だが、爆心地の惨状を直接見ていないからと、体験を人前で語ることを控えてきた。いまは孫と穏やかに暮らす。そんな長崎の「普通の人」の声に耳を傾けたい――。

佐々木亮(ささき・りょう) 西部報道センター記者。1964年生まれ。長崎総局デスクだった2008年、ナガサキノートを始めた。大江健三郎さんの「ヒロシマ・ノート」へのオマージュとして名付けた。

 岩永美代子さん(88)は私が2007年12月~10年9月、長崎勤務で借りたマンションの大家さんだ。当時幼稚園児だった孫の朋之君と出かける時に玄関先で会うと、あいさつを交わした。笑顔の優しい「普通の人」という印象だった。

【3Dで特集】ナガサキノート あの日、人々の足取り
1945年8月9~10日に爆心地数キロ圏内にいた人を中心に約150人について、証言から推測される足取りを地図上に再現しました。一人ひとりの証言が読めます。

 08年初夏、岩永さんが朝日新聞長崎総局を訪ねてこられた。長崎市の旧城山国民学校(現・城山小学校)で学徒動員中に被爆死した林嘉代子さんを悼む「嘉代子桜」を語り継ぐため、新しい苗木を広める運動を始めたという。「私、林嘉代子さんと同級生で仲良しだったんですよ」

 そのころ、被爆者の声を報じる度に、語られる事実の大きさと重さに「もっと伝えなくては」との思いに駆られていた。半面、不屈の姿に圧倒され、「惰弱な私とは、ほど遠い」と気後れもした。

 だが原爆は、岩永さんのように「普通の人」の上に落とされ、今ここに生きる私につながる物語なのだ。暮らしを理不尽な暴力で破壊され、それでも生き抜いた「普通の人」の声を伝えよう――。朝日新聞長崎版で被爆者の証言を毎日つづる「ナガサキノート」を始めた。

 今夏、久しぶりに岩永さんを訪れた。戦争や原爆のことを改めて聞くと、「本当に昨日のことのよう。今も頭の中に見えるように浮かぶ」と語られた。

 13年にナガサキノートに登場したが、被爆体験を人前で語ることに控えめだ。理由を尋ねると、5年前と同じ言葉が返ってきた。「私は原爆を免れたから」

 1945年夏、長崎高等女学校4年生だった岩永さんと嘉代子さんは学徒動員に駆り出されていた。岩永さんは爆心地の南東約6・3キロの三菱兵器の工場へ。一方、嘉代子さんは城山国民学校に疎開していた給与課へ。工場とは違って油臭くない職場は、同級生たちからうらやましがられたという。

 8月9日朝、嘉代子さんは「今…

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