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小西勝さん(1932年生まれ)

 7月6日に行われた第100回全国高校野球選手権記念長崎大会の開会式には、元球児の被爆者5人が招かれた。その中に、海星OBの小西勝(こにしまさる)さん(86)の姿があった。

 小西さんは1945年、当時の旧制海星中に入った。8月9日、爆心地から約2・5キロの長崎市平戸小屋町の自宅で被爆し、顔や腕にやけどを負った。再び学校に行けるようになるまで半年かかった。傷口にハエが卵を産み、母に何度も「殺してくれ」と叫んだ。

 翌年、野球部に入部。「原爆に負けてたまるか」と打ち込んだ。花形の遊撃手で4番。体格はよく、足も速い。甲子園への出場経験こそないが、全国優勝した学校と渡り合ったこともある。

 原爆は人生に影を落とした。健康ではあったが、学生時代は、やけどの痕を隠しながら過ごした。当時の小西さんの写真には、腕を背に回したり、首にタオルを巻いたりする姿が残る。

 それでも前を向けたのは、野球のおかげだ。「死なんでよかったなと思いますよ。原爆のつらさは、野球が吹き飛ばしてくれた」

 小西さんは1932年、6人きょうだいの長男として生まれた。長崎市丸尾町にあった家は2階建て。祖父は船頭、父は底引き船を修理する仕事で比較的裕福な家庭だった。

 戦時中、働くために長崎へ来た「職工さん」が一時期、2階に下宿していた。大分・別府の旅館の息子。野球のグラブを二つ持っていて、小学生の小西さんとキャッチボールをした。初めて出会った「野球」だった。

 子どもの間では、こまをぶつけ合う「けんかごま」がはやった。相手のこまを海に飛ばしたこともある。肩をきたえた幼少期の経験も、野球少年の原点といえるかもしれない。

 小学校卒業を前に、強制疎開で平戸小屋町へ移った。新しい家は6畳2間。手狭になり、弟たちは祖母とともに、父の故郷の岡山へ移った。長崎に残ったのは、小西さんと両親の3人。小西さんは今、幼い弟たちは「疎開してよかった」と当時を振り返る。原爆を体験せずに済んだからだ。「残っていたら、どうなっていたか分からないですよ」

 1945年春に長崎市東山手町の旧制海星中に入学。長崎原爆学校被災誌によれば、5学年で約1千人の生徒が通っていた。敗戦までの4カ月、学校では軍事教練や農作業ばかり。小西さんは座って勉強した記憶がないという。「教室に入ったことすらない。学校というより、軍隊養成所ですよ」

 校舎内には、腰にサーベルをさげた軍人がうろついていた。校庭は掘り返して畑にし、芋などをつくった。学校から一望できる湾では、昼休みに空中戦を見たこともあった。

 戦況の悪化とともに、生徒たちはいっそう勤労に従事させられた。この年には徹夜での作業もあったとされる。青春を送るはずの若者たちが、夏休みも返上で働く時代だった。

 小西さんたち下級生は、来る日も来る日も竹やりで突く練習を繰り返した。「こんなことして、日本は勝てるのかよ」と小西さんがつぶやくと、仲間から「ばか、そんなこと大きな声で言うな」とたしなめられた。「憲兵に聞かれたら、すぐ引っ張っていかれるぞ」

 1945年8月9日は朝から空襲警報が鳴り、自宅にいた小西勝さんは山の方へ避難した。ほどなく解除になり、家に戻った。両親はともに働きに出ていたため、一人で過ごした。

 昼前、「落下傘だ」という近所のおばさんの声を聞いた。小西さんはそれを見物するため、外の様子をうかがおうとした。家の外の1メートルほどの段差を飛び降りたのと、原爆が炸裂(さくれつ)したのはほぼ同時だったという。

 「どーん」。音は聞いたが、閃光(せんこう)やキノコ雲を見た記憶はない。頭を打ったのか、少しのあいだ、気絶していたようだ。家を見ると、窓ガラスがなくなっていた。

 体が熱く感じて、自宅の防火用水がある方へ足を向けた。水面に映る自分の顔を見て、「えらい赤いなあ」と思った。その水をかぶるように浴び、水の中に腕も入れた。「もし、ごしごしと洗っていたら、皮がぺらーんとめくれていたでしょうね」。小西さんは、この時の自身の状態をそう振り返る。

 近くの防空壕(ごう)へ行くと、先に入っていたおばさんから「どうした、あんた。そんなに水ぶくれつくって」と声をかけられた。そこで初めて、自分がやけどしていることに気づいた。やけどは顔だけでなく、露出していた首や腕にも広がっていた。

 小西さんは翌日、現在の稲佐警察署あたりにあったという保健所に向かった。けがの手当てをしてくれると聞いたからだ。しかし、薬は満足になく、赤チンを塗っただけで帰ってきた。その後、徐々に熱が出て、水ぶくれもひどくなった。「こりゃ死ぬかもしれん」。そんな思いが頭をよぎった。

 それぞれの職場にいた両親には幸い、けがはなかった。どこで再会したか、その後どこをどう歩いたか、小西さんははっきり覚えていない。次第に薄れゆく意識の中で、印象に残っている情景が二つある。一つは燃え上がる県庁。もう一つは、稲佐橋から見下ろした、川に重なる遺体の山だった。

 爆風で壊れた自宅には住めなくなり、小西さんと両親は近所の知り合いの家に身を寄せた。

 やけどは水ぶくれになり、数日後には傷口にハエが卵を産みつけるようになった。人間の体温がちょうどよいのか、卵はよくかえった。次第に熱も出てきて体調がすぐれず、母親に看病してもらった。

 傷口にわくウジ虫を、母が箸で取り除く。いくら取り除いても、顔や腕の傷口でウジ虫がはう。小西さんは何度も「殺してくれ」と叫んだ。「やけどの痛さより、ウジ虫が動くのが何とも……。痛いというより苦しいんです」。筆舌に尽くしがたい苦しみだった。

 「このクソバエが」。今回の取材中、小西さんはハエが飛んでいるのを見つけると、目の色を変えて追いかけた。70年以上が経っても強烈な記憶として残っているのだと、思わずにはいられなかった。

 終戦を迎えたころ、小西さんは父の郷里の岡山の病院へ行くことになった。道ノ尾か長与辺りの駅までリヤカーで運ばれたらしいが、ほとんど意識がなく、どこをどう通ったか覚えていない。両親によると、運ばれる途中も「死にたい」「殺せ」と声に出していたという。

 岡山へ向かう途中の記憶もほとんどないが、一つだけ印象に残っていることがある。汽車で近くに座るおばさんが、やけどを負って寝込む小西さんに「ぼく、どうしたの?」と声をかけてくれた。傷ついた少年を見かねてか、真っ白なにぎりめしをくれたのだ。その時の味が、今でも忘れられないという。

 岡山の病院には半年ほど入院した。院内では、背中一面びっしりやけどした人も見かけた。広島で被爆した人のようだった。

 退職後、岡山を再訪した。半世紀ほど前に入院した病院はなく、石碑が残っていた。医師も亡くなっていたが、有名な漢方の先生だと初めて知った。元気で生きてこられたのは、先生のおかげかもしれないと思った。

 長崎へ戻ったのは1946年2月。海星中に再び通い始めると、クラスメートから「よう生きとったね」と驚かれた。

 2年に進級すると、担任の先生が代わった。小西さんいわく、「野球がしたくてたまらない人」。ある時、4、5クラスで対抗戦をすることになり、小西さんは中心になって活躍し、優勝。これがきっかけで、野球というスポーツを意識するようになった。

 同じ学年に野球がうまい人がいた。川口力(かわぐちつとむ)さんといい、台湾から引き揚げてきた人で、年齢は一つ上。体は大きくないが、「投手、二塁手、遊撃手……どこをやらせても抜群。うらやましかった」。川口さんから受けた刺激は、小西さんをさらに野球に向かわせた。

 戦時中、海星野球部のグラウンドは芋畑になり、野球ができなくなっていた。この年、その部が復活した。小西さんは、海星のユニホームに袖を通すことを決めた。

 1年生から5年生までが一緒に練習をしていた。小西さんは、3年生ですでに4番を打っていたという。「野球なんかしたことない人ばかり。今みたいに部員がたくさんいたら、レギュラーをとれていないかもしれません」と笑う。

 いまの「全国高等学校野球選手権大会」は1948年の学制改革に伴い、「全国中等学校野球大会」から名前が変わったものだ。小西さんが中3だったのはこの前年だが、同じくレギュラーだった同級生の川口力さんとともに、出場資格を失った記憶がある。県高野連の資料にもこの年、海星の「大黒柱」である2人が欠場したとある。小西さんは先生に「俺らがいなければチームができんでしょう」と食ってかかった。「頭に来た」と言いながら、翌年の大会に向けて練習を続けた。

 当時の部員は15人ほど。小西さんの学年だけで7人ほどいたため、メンバーが足りなくなってしまった。卓球がうまい人など「助っ人」を連れてきて、何とか大会に参加した。

 小西さんは学生時代、船を使って通学していた。旭町から出て、大波止へ。船内は学生だけでなく、県庁や市役所へ通勤する人たちで混雑していた。「いつ沈むかなと思った」と、小西さんは冗談めかして言う。

 当時の船には波がよく入ってきて、足元がぬれた。唯一それを防げたのが入り口付近。天井近くにつかまる所があり、波が来たら体を持ち上げる。そこに陣取るため、汽笛を聞いてからぎりぎりに乗るのが日課だった。

 しかし、タイミングが合わず、捕まり損ねて海に落ちたことも。一度は正月に、父から借りたげたを過って海に落としてしまった。「おやじに怒られる」と思い、海に飛び込んだ。その時の寒さが今でも忘れられない。

 港近くの長崎税関辺りには進駐軍がいて、近づくとチョコレートなどをくれた。「サンキュー!」。戦時中は軍事教練ばかりで学べなかった英語を覚えた。「彼らも言葉が分からない中で、子どもたちが手を上げて喜んでいるのがうれしかったんでしょうね」

 終戦直後は、練習場所もろくになかった。よく使ったのは、現在の活水中学・高校が立つ場所にあった鎮西学院中のグラウンド。竹ざお2本と網を持って行き、即席のバックネットをつくった。他の学校が先に来ていることもあり、早いもの勝ちだった。しかし顔見知りの生徒も多くいたため、試合をしたり、一緒に練習したりすることもあったという。

 進駐軍が「野球をしよう」と言ってくることもあった。試合後には、「軍艦では使うことも少ないから」と、グラブやバット、スパイクなど野球道具をくれた。物資が少なかった当時、小西さんたちはそれが楽しみだった。卒業する遊撃手の先輩から受け継いだグラブも、進駐軍からもらったものだった。

 当時は道具も手作り。機械のエンジンに使うベルトを拾ってきて靴底にし、靴屋で仕立ててもらった。型紙にあてて布を切り、綿を包んでグラブにした。配給されるようになったのは、高校生になってから。いいスパイクを履いていくと、先輩に取り上げられた。

 今春で142回となった九州地区高校野球大会。1948年春、その第2回大会が長崎市で開かれた。大きな球場がなく、油木町にあった長崎商のグラウンドが会場になった。

 バックネットには長崎港に張り巡らされた金網を使った。戦時中、米海軍が三菱造船に侵入するのを防ぐためのものだったという。スタンドには、くんちの桟敷席を持ってきた。

 小西さんたちの海星はこの大会に参加。ほかの地元校が苦戦する中、鹿児島の学校に勝利し、ファンを沸かせた。

 夏の県大会は準優勝。1回戦では川口力投手がノーヒットノーランを達成した。県高野連の資料によれば、戦後初の記録という。

 秋には大分で第3回の九州大会があった。県代表の海星は、初戦で福岡の小倉と対戦。甲子園で5試合連続完封したエース福嶋一雄(ふくしまかずお)投手を擁し、夏の全国大会を連覇したばかりのチーム。八回まで0―0。4番の小西さんは福嶋さんから安打を放った。0―2で力尽きたが、「あれはいい思い出」と振り返る。

 小西さんは高校3年の冬、長崎商の監督から社会人チームへの誘いを受けた。「小倉でノンプロをつくるから、受けてみないか」。福岡出身の、相葉(あいば)さんという人だった。誘いを受けたのは、小西さんだけではなかった。1948年秋の九州大会で全国連覇の小倉(福岡)相手に好投した、左腕の副島貞康(そえじまさだやす)投手。2人で福岡へテストを受けに行った。

 2月の小倉は寒く、グラウンドには氷が張っていた。驚いたのは、テストを受けに来た人数。各ポジションに20~30人はいた。事前の練習もなく受けさせられたテストで小西さんは力を出せず、不合格となった。

 卒業後は、地元に支社があった「大洋漁業」(現・マルハニチロ)に就職し、職場のチーム「大洋クラブ」で野球を続けた。入社した1951年にできた大橋球場などで、仕事後に毎日練習。社会人でも4番を務めた。

 景気が良い時代で、ボーナスは半年分。本社が持つプロ球団「大洋ホエールズ」が優勝すると、全社員に1千円が配られた。

 「プロのキャンプに行ってこい」。小西さんは20代のある日、職場の上司から言われた。相手は、小西さんが所属する社会人野球チーム「大洋クラブ」をつくった南里武彦(なんりたけひこ)部長。会社が保有するプロ球団「大洋ホエールズ」が長崎でキャンプをしているらしい。「プロなんて考えたこともなかった」という小西さんだが、部長から「会社命令」と言われ、しぶしぶ大橋球場に足を運んだ。

 そこには、体格のいい選手がずらり。仕事で米を担ぐなど、パワーには自信があった小西さんだが、プロのメンバーは体が一回り大きく、中には相撲取りのような選手もいた。「クビにしてもらっていい。勘弁してくれ」。小西さんは、練習には参加せずに引き揚げてきたという。大洋はその後、1960年にセ・リーグを制し、日本一に輝く。

 外野手に転向していた小西さんはその後、プロのノックを受ける機会があった。「あと少しで届く」という所にどんどん球が飛んでくる。「プロってすごいなと思いましたね」

 「入院も手術もしたことない」。被爆時にやけどを負った小西さんだが、健康な半生を送ってきた。86歳を迎えた今も、毎月ゴルフに通う。「野球のおかげで、体が丈夫なのかもしれない」

 そんな小西さんも、夏だけは苦手だという。「原爆の日が近づいてくると、どうも体調が変になる。なんかあるんだろうな」

 これまで、被爆体験を積極的には語ってこなかった。「こんな元気なやつが話しても……」。健康ゆえに、説得力がないと考えているという。今回の取材中、「こんなに当時のことを話したのは初めてですよ」と、すがすがしい表情で語ったのが印象的だった。

 学生時代、野球部の花形選手として活躍した小西さん。若い頃は首や腕に残ったやけどの痕を見られまいと、包帯やタオルで隠した。もし、野球をやっていなかったら……と考えることもある。「いじめられたりしていたかもしれませんね」。青春を捧げるものがあったからこそ、原爆にも負けなかった。(森本類・32歳)