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 戦中の1942年夏、甲子園球場で選手権大会は開かれなかった。代わりに文部省が甲子園で催したのは、戦意高揚のための全国中等学校錬成野球大会。選手権史には記録されず、「幻の甲子園」と呼ばれる。今大会で春夏の甲子園での100勝を達成し、15日に2回戦に挑む京都代表の龍谷大平安(旧平安中)も出場16校の一つで準優勝だった。当時の選手が思い出を語った。

 平安中は1、2回戦と準決勝を勝ち上がり、決勝は準決勝と同日。徳島商に延長十一回、押し出しで7―8でサヨナラ負けした。捕手だった原田清さん(91)=京都市中京区=は「平安の100勝に私たちの3勝が含まれないのは寂しい。幻なんかではなく、確かに甲子園の土を踏んだんだ」。

 スコアボードには「勝つて兜(かぶと)の緒(お)を締めよ」「戦ひ抜かう大東亜戦」というスローガンが掲げられた。選手は「選士」と呼ばれた。突撃精神から死球を避けることは禁止。選手交代も許されなかった。

 試合中、その日に召集令状が来た観客の名前が読み上げられ、「ご自宅にお戻りください」と呼びかけられた。原田さんは「観客から拍手がわいたが、本人にしたらたまらんかったやろうな」と話す。

 原田さんは6人きょうだいの次男として京都市左京区で生まれた。39年に平安中に入学してすぐに野球部に入り、甲子園を目指した。戦時色が強まった41年7月の地方大会中に、文部省はその年の選手権大会中止を決めた。

 野球部は43年に休部。それでも原田さんは、授業の合間に、仲間とキャッチボールをした。心のどこかで開催を期待していた。

 錬成野球大会の開催は一度きりだった。戦時中は軍事教練で模擬の手投げ弾を投げ、銃を担いで行軍する日々。学徒動員で軍需工場に通い、火薬づくりを続けた。44年に平安中を卒業した後は海軍入り。広島県呉市の島で特殊潜航艇「蛟龍(こうりゅう)」に乗る訓練を受けた。沖縄に出撃するはずだったが命令はなかった。兄はインパール作戦で死亡した。

 終戦後に立命館大に入り、野球を再開した。「物資も食料も乏しかったが、野球ができるだけでうれしかったね」。卒業後は8年間、プロ野球の東急(現日本ハム)でプレーした。

 母校の活躍はテレビで見守っている。「平和やから野球ができるし、母校が終戦の日に試合をする。もう戦争はあかんよ」

 龍谷大平安の原田英彦監督(58)はこの日、「先輩たちが戦中も思いやりとやり通す気持ちをつないでくれ、今がある。第100回大会で終戦の日に野球ができるぼくらは幸せ」と話した。(興津洋樹)