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甲子園観戦記 俳優・八名信夫さん

 創志学園はふるさと、岡山の代表です。甲子園は67年ぶり。岡山東(現岡山東商)1年の時、先輩たちをアルプスで応援しました。中西太さんがいた高松一に敗れた。

 終戦から73年がたちます。僕は9歳で岡山空襲に遭った。おやじが岡山駅の助役で、駅近くの官舎に住んでいた。1945年6月29日未明、警報は鳴らなかった。突然のバリバリという轟音(ごうおん)、おやじの「逃げろー」の声。外に飛び出すと、前の官舎から女の子がはい出てきた。体から煙が上がっていた。小学校の同級生でした。助けることは出来ず無我夢中で逃げた。

 焼夷(しょうい)弾の真っ黒な煙で方角が分からない。手をひいてくれたおふくろと姉とはぐれ、気づいた時は田の水の中に倒れていた。死体だと思ったんでしょう。消防団の人に棒で引っかけられて目が覚めた。炊き出しをしていた小学校でおふくろたちと会えた。

 戦争が野球との縁になった。終戦後、疎開先の小学校に進駐軍がシラミ駆除の殺虫剤DDTを散布しにやって来た。米兵たちがキャッチボールをしているのを見て、こんな面白そうなものがあるんだな、と。サツマイモを軍手で包んだボールをおふくろに縫ってもらい、夢中になった。

 高校は強豪の岡山東に進んだ。1年秋から一塁手のレギュラーでしたが、2年夏も3年夏も甲子園には届かなかった。練習はきつく、隠れて泥水を飲んだ。逃げずに、立ち向かっていく。その大切さを高校野球から学びました。

 投手としてプロ野球の東映(現日本ハム)に入団3年目、腰の大けがをして俳優に転じた。通行人の役ばかりでは食っていけない。身長182センチの体格を生かして迫力ある死に方を磨いたことで、悪役として道が開けた。その後「悪役商会」を結成した。

 悪役商会の仲間で老人施設の慰問なども行ってきた。いまは災害被災地を支援したいと、自分の監督、脚本で映画を撮っています。82歳にもなって、人様の力になれるわけがない。そう言われそうですが、やはり逃げたくない。今夏の豪雨の被災地にも何か出来ないかと考えています。

 正午、黙禱(もくとう)です。僕は戦争より恐ろしいものはないと思っています。人間の性格や魂、気持ちまでも消し去ってしまう魔の消しゴムなのだと思っています。戦争を知る人が減る中、この黙禱は子どもたちの胸に突き刺さります。4万人の観衆の方の胸にも。

 9歳のあの夜、岡山では1700人以上が犠牲になり、同級生が何人も亡くなった。魔の消しゴムによって、大会が途切れるようなことは、もうあってはならないのです。(構成・竹田竜世)

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 やな・のぶお 1935年生まれ。82歳。明大中退後、プロ野球東映に入団。俳優に転じ、83年「悪役商会」を結成。映画「おやじの釜めしと編みかけのセーター」で初監督を務めた。新作は熊本が舞台の「駄菓子屋小春」。

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