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 73年前の晩夏、京都府亀岡市に生きて帰ってきた元特攻隊員の男性がいる。「もう二度と会えない」と家族や友人と涙で別れ、死ぬ覚悟を決めて出撃の日を待ったが、その5日前に終戦を迎えた。恥ずかしさでいっぱいの帰還だった。しかし、両親は18歳の青年を大喜びで迎えた。

 男性は同市曽我部町に住む木内直(ただし)さん(91)。現在の同市千歳町の出身で、パイロットは幼い頃からのあこがれだった。亀岡農学校に進学後も空への思いは消えず、海軍飛行予科練習生(予科練)を志願。校長は「農学校からの受験は初めてだ」と喜び、全校生徒の前で紹介した。

 心躍らせて鳥取県の美保海軍航空隊に入隊したのは1943年10月。だが、待っていたのはバッターと呼ばれる「軍人精神注入棒」で尻を殴られる毎日だった。行進がそろわない。ハンモックを時間内につるせない。そのたびに教官が「気合が抜けとる」とバッターを振り下ろす。痛みで仰向けに寝られず、「なんでや」と忍び泣く仲間もいた。

 44年5月、1週間の休暇が与えられ、「親兄弟に最後の別れをしてこい」と命令が下った。七つボタンの予科練の制服を着て実家に帰ると父政一さん、母ミツエさんは驚いた様子だった。「これが最後。もう帰れん」と伝えると、2人の目から涙があふれた。両親が慌てて親戚を集め、「最後の写真」を撮った。

 配属先は鹿児島県の航空基地。我が物顔で飛ぶ米軍爆撃機B29の編隊に圧倒的な戦力差を感じたが、そんな感想は口にはできない。出撃する特攻隊員の先輩を見送る度に「自分も続かなくては」と気を引き締めた。精鋭機は失われ、「赤とんぼ」と呼ばれた複葉の練習機で夜間の実戦訓練を繰り返した。敵機の攻撃を避けるためだったが、自機の位置を見失って墜落する事故が続いた。

 45年の8月に入り、上官が言った。「お前が突っ込むのは20日や」。爆弾を積んだ「赤とんぼ」を特攻機としてあてがい、沖縄の海で敵艦に体当たりせよとの指示だった。「一機一艦」を掲げ、死ぬために厳しい訓練を重ねてきた。「覚悟しているので何も怖くはない。自分の番が来たんや、と思ったぐらいだった」

 終戦はあまりにも突然だった。「わしらが残っている。なんで負けたんや」。仲間同士で泣きに泣いた。意気消沈する中、両親に最後の別れを告げた1年前の光景が頭をよぎった。亀岡駅でも旧友たちが涙ながらに見送ってくれた。「生きているのがおかしいぐらいだ。恥ずかしい」。郷里を思うほど気持ちが塞いだ。

 夏が終わる頃、帰るはずのなかった亀岡に着いた。両親は木内さんを見るなり「よう帰れた!」と声を上げた。自分を見送った集落の人々も帰還を喜んでくれた。敗戦を悔やみ、生きて帰ることを恥とばかり思っていたが、郷里の人々の意識はまるで逆だった。誰もが「早いこと戦争が終わって良かった」と感じていることに気づいた。

■「生きている間に経験残し…

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