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 幕末に江戸幕府が初めて欧州に派遣し、兵庫の開港延期交渉などにあたらせた「文久遣欧使節」。その使節の一員だった兵庫県北部出身の武士たちが残した日記や手紙の内容が、近年の研究で明らかになりつつある。東京の品川区立品川歴史館の学芸員、冨川武史(とみかわたけし)さん(日本近世史)が8月26日、兵庫県朝来市で講演し、研究の最前線を語った。

極めてまれな現存史料

 講演会は、朝来市の生野書院で開催中の企画展「サムライが見たヨーロッパ」の関連イベント。企画展では、文久元(1861)年12月から約1年かけて欧州6カ国を巡った文久遣欧使節の全権大使を務め、朝来市を領地とした旗本の京極高朗(たかあき、1823~64)の従者、黒澤貞備(さだよ、1809~92)が残した日記などが紹介されている。

 品川歴史館には京極高朗の欧州派遣中に江戸で留守を任された京極家の家臣・永坂昇太夫(ながさかしょうだゆう、1817~89)家に伝わる多数の文書が寄託され、冨川さんが、永坂家文書に含まれていた訪欧中の黒澤と永坂が交わした往復書簡や京極の日記などを調査中だ。

 講演で冨川さんは、これらの史料について「使節団の首脳と家臣の史料が現存するだけでも極めてまれだが、比較、照合を通じて、彼らがどのように欧州に派遣され、何を見てきたかも知ることができる」と述べ、その価値を評価した。冨川さんによれば、日記の記載などから、京極家では計59通の手紙のやり取りが明らかになった。

英米の対立も

 日本から欧州へ出した手紙は現存しないが、訪欧中の黒澤から江戸の永坂らに書き送った15通の手紙が残る。主人である京極の体調などのほか、旅程の報告など実務的な内容が中心だった。セイロン(現スリランカ)寄港時の手紙には、南北戦争をめぐって英米両国が対立し、その余波を警戒して船中でも臨戦態勢をとったと記されていた。

 手紙の書かれた日付だけでなく…

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