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 「考え、議論する」という方針を打ち出し、戦後初めて「教科」になった道徳。今春、小学校で始まり、来春から中学校でも始まります。従来の「道徳の時間」から特に変わるのは、検定教科書を用い、児童生徒を評価する点。でも教科書をめくると、これが本当に道徳的なのかと疑問が浮かぶ教材もあります。そもそも、道徳って何でしたっけ?

教科書 事実と違う?

 歩きスマホならぬ、歩き読書で知られる二宮金次郎。清貧で勤勉な少年・金次郎は、戦前の「修身」の国定教科書に頻出し、新たな「道徳」の検定教科書にも多く登場します。

 しかし、いま学校で使われている教科書を前に、金次郎を擁した二宮家の現当主で日本思想史学会員の二宮康裕さん(71)はため息をつきます。「どれも史実に忠実とは言えません」

 小学校の教科書では、8社中4社が金次郎を取り上げ、2社は幼少から読書を重ねた旨を記しますが、康裕さんによれば、金次郎が読み書きを学んだのは10代後半。また、少年期に、堤防工事をする村人に自ら進んでわらじを作って配る話も2社が載せていますが、信頼に足る根拠はないそうです。

 金次郎が「修身」に登場したのは自由民権運動に手を焼いた明治政府にとって都合の良い人物像だったため、と康裕さんは考えます。同様の指摘は、教育史の研究でも示されています。

 「理想像を作りあげて教える。国も教科書会社も、明治時代と何が違うのか。金次郎を扱うなら、確実な資料が残る成人後、独創的な考えで貧しい農村を活性化した姿に限って欲しい」と、康裕さんは嘆きました。

 小学4年の教科書に、幼少期から読書の話を載せた教育出版は「記念館などに内容を確認してもらった」と説明しました。

 また、東京書籍の中学2年の教科書には「武士道」が登場します。この記述について、佐伯真一・青山学院大教授(日本文学)は異を唱えます。教科書は明治時代の新渡戸稲造の著作「武士道」を例示し、自分の損得とは別に「正しいかどうかで行動する」ことと説明しました。が、佐伯さんは、この本の内容に近いのは儒教に影響されて江戸期に広まった考え方で、「武士道とは別の思想だ」と指摘します。東京書籍は「社会科なら不適切かもしれないが、道徳の議論教材としては適切と考えた」としています。

 こうした記述がなぜ、教科書検定を通ったのか。文部科学省の担当者は「定められた教育内容をきちんと扱っているかどうかが最大の要点。事実の正確性は、道徳学習への支障の有無で可否を判断している」と説明します。

価値観押しつけの懸念も

 今回の教科化では「価値観の押しつけを廃し、児童生徒の主体性を打ち出した」と文科省担当者は解説します。教科化前からあった「正直、誠実」など学年ごとに最大22項目の教育内容について、正しいか間違いかという価値判断とは一線を画し、価値を巡る客観的な事項と位置付け。児童生徒が理解した上で、それらを自身の価値観としてどう考え、深めていくかを支援する枠組みに再整理した、といいます。

 一方、小学校の教科書では全8社が、価値観の押しつけとの批判もある物語「手品師」を掲載しました。

 腕はいいが機会に恵まれない手品師は街で出会った不幸な少年を手品で慰め、翌日も会う約束をします。するとその夜、友人から、明日の大舞台で出演者に穴があいたので「君を推薦した」「二度とないチャンスだ」と勧められ、悩みますが、約束を優先して出演を諦めます。

 この物語は約40年前の文部省(当時)作成の学習資料が初出とされ、広く使われてきました。主人公には、例えば少年に事情を伝えて舞台に出るという選択肢もありそうなものですが、作者は生前、約束を守らないのは「自分の勝手」と語り、無償の自己犠牲が正しい判断だと物語の趣旨を解説しています。

 ある教科書会社の担当者は「批判は知っているが、定番の手品師をうちだけ載せなければ、採択地域が減るのではと恐れた」と明かします。地域の採択関係者には「良いことは良い、悪いことは悪いとたたき込んで欲しい」との声もあるため、手品師の判断だけが「良い」と言えるのか、児童に問いかけるような工夫もしなかったそうです。

 工夫した社もあります。光村図書は中3教科書で「手品師」を再掲。物語の前で、同じ物語を学び直したらどう感じるか、と呼びかけます。物語の後で、手品師にチャンスをくれた友人にふれて「手品師は本当に誠実といえるか」と問いかけました。

 「生徒が、より良い選択だと思っていたことを一度崩すことで、多面的・多角的な考察を促すようにした」と同社の担当者は解説します。「多面的・多角的」に考える力を育てることは、文科省が道徳科の内容を定める学習指導要領とその解説に盛り込まれた目標です。

 他の社も、結論を決めつけない教材も選ぶ努力はしました。学校図書が中3教科書で取り上げたのは、礼儀を重んじる剣道部での葛藤。敬語を大事にする先輩と「民主的じゃない」と考える後輩がケンカし、間に入った主将は「どちらの気持ちも分かる」と苦悩します。

 が、結果的には「手品師」以外の定番教材も多く盛り込まれました。複数の社の編集者は「編集期間が短すぎ、満足な仕上がりではない」と漏らします。文科省が教科内容を示す学習指導要領とその解説を出し終えたのが2015年7月。小学校教科書では翌春が、検定用の仮の完成版を文科省に提出する期限で、通常2年の編集期間が1年未満だったそうです。

 編集期間の短さに初の検定への警戒も相まって、過去に文科省が作成した学習資料などから「定番」とされる教材を積極的に採用した、と話す担当者もいました。

 「誠実」など特定の価値を学ばせる狙いで書かれた定番教材は「自由な読み方が出来にくく、児童生徒による批判的思考につながらない」と指摘する論文を16年に発表した新井保幸・育英大教授(教育哲学)は、定番教材を多用する教科書について、「価値観の押しつけが目標ではないと言う文科省の方針と矛盾する状況では」と指摘します。

 文科省の担当者は「押しつけかどうかの明確な判断基準は示せるものではないが、議論の上、適正に判断している」と説明しました。

児童を「評価」 悩む先生

 「家族ってどういう存在?」。9月中旬、東京都内の小学校の道徳授業。この日のテーマは「家族愛」で、児童たちが積極的に手を挙げて発言します。祖父との死別を描いた教科書の物語に目を潤ませる児童もいます。30代の男性教諭は「きっと子供たちは、家族って何かをそれぞれ考えたはず。手応えはあります」と語りました。

 ただ、学校現場では元々、道徳教科化は不人気でした。愛知教育大など4大学が15年に実施した調査では、小中学校教員の約8割が「反対」「どちらかと言えば反対」でした。

 授業の現場には今も不安が漂います。長年、九州で道徳教育を研究する60代の小学校教諭はこの夏休み、県内5校で教師向け研修の講師を務めました。「児童の『評価』が皆さんの一番の不安要素でした」

 道徳科は、教師に児童生徒を評価するよう求めています。算数や国語のように理解レベルを数字で段階評価するのではなく、文章で記述しなければなりません。「授業で扱う道徳的価値を肯定したかどうかは問わない。友達の考えにも耳を傾けて、多面的多角的に考えるようになったかなど、考える力の成長を評価する」(文科省担当者)といいます。

 九州の教諭は「そうした評価は可能ですが、教師が授業の仕方を理解していなければ無理でしょう。一方的に価値観を説く『お説教道徳』を行ってきた教師には難しいはず。評価への不安は、理解不足の現れです」と話します。

 そして「教科書は、それを使う教師を育てる、という側面もある。だが、必ずしも児童が多角的に考えられるよう促せていない教科書も多い。これで教師が育つのか不安です」と語りました。

 教師たちでつくる「道徳の教科化を考える会」代表で都内の小学校教諭、宮澤弘道さん(41)は全教科書を読み込み、「濃淡はあるが、どの教材も児童生徒をひとつの価値観に導く作りになっている」と見ています。その上で、「仕事に追われて余裕のない教師が悩まずに『正解』の価値観を教えてしまえる環境が整っている。文科省の言う評価は理想かもしれないが、現実には困難」と指摘しました。

 また学習指導要領は「正直、誠実」「勤労、公共の精神」など、学年ごとに19~22の項目を授業で取り扱うよう求めています。

 昨年度まで小学校教師として道徳の実践研究をしてきた服部敬一・大阪成蹊大教授(道徳教育学)は、この道徳科の枠組み自体にも、実施の困難さを指摘します。

 「なぜそれが『よい』という価値観になるのかを論理的に考える力を養う」が道徳教育の根幹だと服部さんは言います。論理性を高めれば、教科書教材に矛盾があっても児童生徒が気付けるようになる、との考えです。

 しかし、学習指導要領が示す「家族愛」や「郷土愛」の項目については「感情に論理はそぐわない。道徳で扱うことが可能か、疑問だ」と話しました。

教育の中身 社会が検証を

 道徳教育は、歴史的には子供たちへの価値観注入が出発点でした。道徳の前身とも言える「修身」が教育の最重要科目になったのは、1880年。その前年に明治天皇が出した教学聖旨に基づく施策でした。上下関係を尊ぶ「忠孝」の概念を幼少期に「脳髄ニ感覚セシメテ培養ス」としています。

 戦後、修身科は廃止され、1958年に教科ではない「道徳の時間」として価値観を巡る教育の再開が決まります。

 その後、何度も充実化を巡る議論を経て、第1次安倍政権の2007年、首相肝いりで「21世紀の日本にふさわしい教育」を考える教育再生会議が「徳育」として教科化を提言。委員だったエッセイストの海老名香葉子さん(85)は当初、教科化を検討するきっかけになった会合で、「徳目、修身、道徳を復活させてほしい」と訴えました。なぜ「修身」だったのか、今回尋ねると、空襲で肉親を失った海老名さんは「戦前教育をそのまま復活すべきではない。戦争に行くことを正しいとする戦前の教育は間違い」としつつ、「親孝行、目上を敬う、世のため人のために働くといった間違いなく正しい考え方は、先生が説得力をもって教え込むべきです」と語りました。

 その後、第2次安倍政権でも新たに発足した教育再生実行会議が13年に教科化を提言し、15年に文科省が学校教育法施行規則を改正し、教科化を決定しました。

 道徳は元々、小中学校教員の7割前後が「十分実施できていない」と答えた調査結果もあるなど、学校間の取り組み格差などの課題が指摘されていました。学習指導要領解説は教科化の理由について、こうした現状を「改善・充実」する必要があった、と教科化の理由を説明しています。

 そして、児童生徒自らが「考え、議論する」という設計の教科になりました。

 「道徳教育はホントに道徳的か?」の著者、松下良平・武庫川女子大教授(教育学)は、修身を「国家主権を行使する為政者が、国民統治に適した価値観を教え込むための教育だった。国民もそれを受け入れた側面もある」と解説。戦後、主権が国民に移ってもそれに見合う教育のあり方の追求が不十分で、修身に似た手法が残ってしまった、と考えます。

 「生き方の異なる主権者同士がいかに共生していくか。これについて考える力を育てることが、民主国家における学校の道徳教育。そのためには今回の枠組みにどのような中身を入れるかが課題です。社会が批判的に検証を続け、支援していく必要があります」と話しています。

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 宗教教育がない日本でどう道徳を教育するのか? 19世紀、留学先の師の問いに絶句した新渡戸稲造は、米国人の妻とも対話して考え続け、「武士道」を著しました。

 今回の取材でこれを知り、ハッとしました。かつて旅先でムスリムの人に「我々は神が見ているから悪事はしない。無宗教の君はどうだ?」と聞かれ、「善悪とは何だ?」と眠れないほど考えたのを思い出し、新渡戸に親近感を抱きました。

 本の内容は史実としての武士道とは違うとされますが、自身の「正邪善悪の観念を分析」して至った、日本に西欧とも通じる道徳があるという世界観は世界を魅了しました。道徳とは、「武士道」をそのまま理想として受け入れるようなことではなく、新渡戸のように自ら考えを深め、昇華できる人を育てる教育たるべきではないでしょうか。教科化の現状は頼りなく感じますが、私たちに出来ることもあるはずです。(長野剛)

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