[PR]

 1959年9月26日、死者・行方不明者5098人を出し、戦後最大の台風災害となる「伊勢湾台風」が東海地方を襲った。大きな被害が出た愛知県弥富市の鍋田干拓地では今も慰霊祭が続いている。台風後に再建した約130戸の農家のうち自力耕作を続けるのは10戸足らずになったが、被災の記憶は今も残っている。

 鍋田干拓は640ヘクタール。秋田県の八郎潟などと並ぶ戦後の国営大規模干拓だ。58年にいったんほぼ完成し、20~30代を中心に選抜された農家が入植し始めたが、台風で海岸堤防が切れ、地区住民の4割を超える133人が犠牲になった。3階建てのコンクリート復興住宅に固まって住むなど、復興のあり方でも注目された。

 23日にあった自治会主催の慰霊祭には約40人が集まった。慰霊碑前での読経の後、自治会長の伊藤昌宏さん(62)が「今年は異常気象で災害が多かった。早めに避難しましょう」と呼び掛けた。

 参列した伊東加富(かとみ)さん(85)はあの日、新築の家ごと流され、2時間漂流した。奇跡的に助かった後、連日遺体捜索をした。全滅した一家や妊婦の遺体もあり、土手に流木を積み上げて遺体を焼いた。

 入植した若者たちにはつらすぎる体験で、鍋田を離れる仲間も出た。それでも約50戸の協業で機械化を進め、酪農や肉牛飼育に乗り出した。だが、米価低迷や牛肉輸入自由化などでうまくいかず、約20年前、伊勢湾岸道関連事業で土地を手放し、引退した。

 いまはパソコンで郷土史や自分史を書き、A4判20枚ほどの小冊子シリーズにして知人や近くの料理店に配る。何度も書くのはやはり台風やその後の苦労だ。戦後の食糧増産のために入植したのに、減反に牛肉の輸入自由化と農政に振り回された。国営で作られた農地は転用が規制されているため、昔と同様、農地が広がっているようだが、単独での農業経営は難しくなってしまった。それでも「ここに踏みとどまって生きてきたから、時代の変化をみることができた」と話す。

 高度経済成長が始まっていた62年に入植した八木賢治さん(74)も慰霊祭に参列した。台風当時は市内の中学生で、鍋田の被害は知らない。でも「先輩が大勢亡くなった。来ないわけにはいかないよ」。入植者では最若手だが、約130人が入っている地区の老人クラブの会長を務める。

 八木さんは70年ごろ耕作請負業を始めた。高額な農業機械をばらばらに買うよりはと始め、鍋田以外の田んぼもがむしゃらに引き受けて規模を広げた。息子(47)に経営を譲ったが、現在、従業員13人で150ヘクタールを耕し、地域有数の規模だ。近年、トヨタ自動車の協力でスマートフォンやパソコンで作業を効率管理する手法が話題となり、同社の豊田章男社長や農水相が視察に来た。

 とはいえ、台風後の日々は忘れがたい。海に戻った干拓地を人力で整地し直す作業のきつかったこと、田んぼでハマグリがとれたこと、照り返しの強い復興住宅の暑かったこと……。

 「老人クラブでは公民館を避難所に建て替えたい、という話も出る。やっぱり台風が原点だね」と話す。(編集委員・伊藤智章)