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 コンドウ、コンドウ、雨、近藤――。

 昭和30年代後半、主に先発で連投に連投を重ねたのが中日・権藤博さん(後に横浜監督など)なら、平成最後の年、ヤクルトの勝ちパターンとして連投も辞さず、12球団最多の72試合に救援してきたのが近藤一樹だ。自身初のタイトルとなる最優秀中継ぎ投手の獲得が決まった。

 歴史になりつつある近鉄球団(2004年の球団再編でオリックスと合併)の在籍者にとって、トレードが再び輝く転機になったと言っていい。

オリ時代は4年連続で手術

 オリックス時代は4年続けて右ひじを手術。支配下登録から外れて育成契約も経験し、先発では長い回を投げて結果を残せなくなっていた。16年夏、ヤクルトに移籍し、中継ぎが主戦場になる。昨季は54試合に救援。「荒れたマウンドで投げるのは苦手だったが、気にならなくなった。投げたくても投げられない時期を経験しているので。体を気にしないで投げられる喜びがある」

 今季序盤はリードされた展開でもマウンドに上がり、信頼を積み重ねた。抑えの石山の前を任されるようになり、昨季最下位だったチームの2位躍進を支えてきた。実質2年目の中継ぎで、勝ちパターンは初めてになる。「近藤、石山がいなかったら、今季の2位はない」。ブルペンを預かる石井弘寿投手コーチはそう感謝し、本音ものぞかせた。「正直、ここまでやるとは思っていなかった」

 それもそのはず、プロ17年目、35歳にしてシーズン143試合の半分以上を初めて投げるのは、並大抵のことではない。積み重なった勤続疲労が、イメージした球道を狂わせることもある。「春先のように140キロ後半の球は確実に投げられない。休んだからといって疲れが取れるわけでもないし」。神戸に家族を残しての単身赴任では食にこだわり、体調を維持してきた。

 中継ぎは、どちらかと言えば抑えたときより、打たれたときの方が注目を浴びる。「多くの試合で投げたと言っても、自分は防御率1点台、2点台の投手ではないので」。確かに、近藤のそれは3・74。「打たれるのが仕事」という独特の割り切り方が、精神面での好不調の波を小さくしているのだろう。

日大三高時代は甲子園V投手

 東京・日大三高時代は2001年の夏の甲子園で強打のチームを支えて優勝投手となり、まばゆいスポットライトを浴びた。「むちゃくちゃ練習したので負けるわけがない、と」。あの夏につかんだ誇りは、今も近藤の胸に残る。

 ただし、甲子園で優勝したからといって、プロでも松坂大輔(中日)のように先発でずっと輝けないことも知っている。近藤をマウンドに送り出す小川淳司監督もまた、千葉・習志野高で夏の甲子園で優勝投手になった後、打者に転向してプロに入ったひとりだ。圧倒的な力がなければ、百戦錬磨の世界で生き抜くポジションを見つけられるかがカギになる。

 今季は7勝4敗2セーブ。ホールドと救援勝利を足したホールドポイントは42になり、2位に7ポイントの差をつけた。神宮球場で13日に開幕するセ・リーグのクライマックスシリーズ第1ステージ。いつものように、ひょうひょうと、近藤は踏み荒らされたマウンドへ向かう。(記録は3日時点)(笠井正基)