司会 編集委員・箱田哲也
拡大する朴晙雨・元韓国大統領政務首席秘書官(左)と佐々江賢一郎・元外務次官=2018年11月8日午後、東京都中央区、林紗記撮影
日本と韓国の政治指導者が和解の誓いを立てた共同宣言の発表から20年。両国関係は飛躍的に発展した一方で、本懐だった「過去」は乗り越えられないまま今日に至る。当時、それぞれの外交当局の担当課長として宣言づくりにあたった佐々江賢一郎さんと朴晙雨(パクチュヌ)さんが語りあった。なんでこうなっちゃったの?
――歴史的な日韓共同宣言は、どんな背景から生まれたのでしょう。
朴晙雨 金大中(キムデジュン)大統領の就任前年の1997年から、韓日間では漁業協定の改定が最大の懸案でした。そして98年1月、日本政府が協定の破棄を通告したため断絶状態に陥った。韓国はそれでなくてもアジア通貨危機で大混乱していました。そんな中、当時の小倉和夫・駐韓大使から韓日間で共同宣言を作ってみてはどうかというアイデアを聞いた。韓国はそれまで、二国間の本格的な共同宣言を作った経験がありませんでした。
98年2月、金大統領の就任式に外務省の北東アジア課長だった佐々江さんが来たので、3日間、一緒に食事をしながら話し合いました。ただ、韓国としては協定を破棄した日本から先に何か措置をとってほしいと考えていました。その後、外相会談などがありました。
拡大する朴晙雨・元韓国大統領政務首席秘書官(手前)と日韓問題を語り合う佐々江賢一郎・元外務次官=2018年11月8日午後、東京都中央区、林紗記撮影
――実際に宣言を作ろうと提案したのはどちらですか。
佐々江賢一郎 考え方は日本から示したと思うけど、最初は確か韓国から……。
朴 98年6月の局長会議で私たちが最初の案を出しました。
佐々江 我々からすると、とても案とは言えない内容でしたが(笑)。でも、それに一心不乱に手を入れました。日韓の政治、経済、安全保障、文化といった関係に加え、地域やグローバルな問題など包括的に考えました。それと過去だけではなく現在の関係にも光をあて、両国がどういう方向に進むのか、いかに手を携えていくのかという大きなコンセプトで。
朴 8月末に日本案が出てきた後、韓国側の意見も加えました。金大統領は就任前から日本とは過去を乗り越え、未来志向的な関係を構築すべきだと繰り返し語っていた。だから私たちも自信をもって、大統領に韓日関係発展のための報告書を何回も出しました。
佐々江 私たちにも大統領の意向が伝わっていた。小渕さんも韓国に愛情を持っていたし、金大統領を尊敬していた。
――宣言を作る上で最も苦労された点はどこですか。
佐々江 やはり過去の問題ですね。95年のいわゆる村山談話で日本はおわびをしている。だからあの談話以上を期待するのは難しいということは、はっきり伝えていた。同時に考えたのは和解という概念です。アパルトヘイト(人種隔離)を廃止した南アフリカには白人と黒人の和解の過程で、罪を認めれば問わないという「許し」の概念があるという。だが日韓間にこの概念はなかった。双方が手をさしのべ、理解し和解して前に進む。朴さんたちとの議論の末、「互いに努力することが時代の要請」だとしたんです。
拡大する佐々江賢一郎・元外務次官(手前)と日韓問題を語り合う朴晙雨・元韓国大統領政務首席秘書官=2018年11月8日午後、東京都中央区、林紗記撮影
朴 そんな思いが佐々江さんと私で一致しました。新たな謝罪を求めることは難しいことは私たちもわかっていた。ただ、韓日の両首脳が過去のことも含めて署名する初めての文書になるので、「おわび」をどう韓国語に訳すかには神経を使いました。それ以前は「謝過(サグァ)」と訳していたが、(より意味が深い)「謝罪(サジェ)」を初めて使うことになりました。最終的に日本側と合意できたのは金大統領が羽田空港から迎賓館に向かう途中でした。
佐々江 大局的に言えば、どんな表現を使うかより、そこにこめられた中身が重要だと思っていた。宣言や行動計画ができると、韓国側は英断し、日本大衆文化の開放に着手しました。
――そんな宣言の理念が、その後の歴史問題などで続かなかった理由はなんでしょうか。
朴 小渕さんが急逝された後、…
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