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 明智光秀が主君・織田信長を討った「本能寺の変」。日本史に残るクーデターが起きたとき、今の岡山市にいた羽柴(豊臣)秀吉の軍勢は急いで京都へ移動し、光秀軍を破った。いわゆる「中国大返(おおがえ)し」。その軍勢の大半を占めていたはずの足軽たちの戦いぶりや考え方はどんなものだったのだろうか。専門家への取材や資料を参考に、足軽2人への「インタビュー」形式で再現を試みた。

 ――あれ、足軽2人が言い争いをしているぞ……

 足軽A おぬし鉄砲は?

 足軽B 重いからちょっとそこへ置いてるよ。

 足軽A 休憩時こそ念入りに筒の中を掃除しろ。敵はいつ来るかわからんぞ。

 足軽B 相変わらず意識高いなぁ。ほっとけよ。

 ――あちこちで人がへたりこんでいますが……

 足軽A ひと月以上前の4月下旬から、毛利方の武将・清水宗治(しみずむねはる)の備中高松城(現在の岡山市)を攻めていたんだ。講和が成ったとたんに突然、転進命令が下り、数日間でここ姫路まで駆け抜けてきたんだ。

 足軽B 秀吉様や一握りの騎馬部隊は馬でいち早く着いている。俺たちは、重い装備を身につけてただ走るだけだ。疲れもするさ。

 ――そもそも、なぜ戦いに参加しているのですか

 足軽A 俺は姫路で主に農業をしていたけど、今は乱世だからな。手柄を挙げて、武士に取り立ててもらおうと思ったんだ。もともとは秀吉様も足軽だしな。

 足軽B 俺も同じ農業だが、動員されて渋々だ。足軽の中には、食料目当てや乱取り(戦場での略奪)目当てで参加している者もいる。俺は早く家に帰って、田畑の手入れをしたい。

 ――足軽は重要ですね

 足軽A 昔(平安時代ごろ)は荷運びや主人の身の回りの世話が主で、直接戦闘はしなかったそうだ。でも、京都じゅうのあらゆる場所が戦場となった大きな戦(応仁の乱)では、武士どうしの一騎打ちではなく、足軽の集団戦が主流になった。足軽の槍(やり)や弓が勝敗を決するのさ。つまり俺たちだ。

 足軽B 昔の足軽のほうが殺される危険も低く、安全でよかったなぁ。それに俺は刀よりも、投石のほうが怖い。石でけがをする兵の多いことよ。武田軍は足軽約300人で「石投げ隊」を編成したそうだ。おお、怖い。

 ――戦場での食事は

 足軽A 足軽への食料配給を始めたのは信長様ともいわれている。でも、いざ戦が始まれば配給は頼れない。蒸した米を乾燥させた干(ほ)し飯(いい)は必須だ。梅干しもあるが、俺はめったに食わない。水がなく、のどがかわいたときに打飼袋(うちかいぶくろ)(木綿の布袋)から取り出して見つめ、口の中につばを出すようにしてるんだ。

 足軽B 干した里芋の茎をみそで煮込んで乾かし、ひも代わりにしている。ちぎって湯に入れればみそ汁にもなる。でも、水は常に足りない。仕方なく、彼の梅干し戦術をまねしてるよ。

 ――秀吉さんは姫路で「城内の…

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