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 第97回全国高校サッカー選手権は30日に開幕する。1918年1月12日に始まり、今年は100年を迎えた。記憶に残る試合を振り返る。

「普段から練習」

 「記録と記憶に残るゴール」

 本人がそう回顧するスーパーゴールが生まれたのは、1981年1月4日。東京・駒沢陸上競技場で行われた第59回全国高校サッカー選手権1回戦だった。

 後半23分。西目農(現西目=秋田)が北陽(現関大北陽=大阪)に1―1に追いつかれた直後のことだった。

 キックオフで味方が前方に転がしたボールを、西目農のFW小松晃が右足で蹴った。電光石火の動きだった。ボールはやや山なりの軌道を描き、GKの頭を越してネットを揺らした。伝説の50メートルシュートである。

 「相手GKがベンチの方に寄って喜んでいたので、狙い目だった。『早く笛を吹いてくれ』と心で主審に訴えていた。キックオフする味方には『早く!』と」

 GKが定位置を離れていたとはいえ、簡単ではない。ふわっとしたボールでは、GKに戻る時間を与えてしまう。かといって完全なライナーだと、GKの頭は越せない。その間のあんばい。「普段から練習中にセンターサークルから蹴っていた。まさかあの場面でチャンスが訪れるとは」

 80年12月のU20(20歳以下)アジアユース東地区予選では5試合で8得点を挙げ、68年メキシコ五輪で得点王に輝いた釜本邦茂に続くエースと期待され、「釜本2世」と呼ばれていた。

 北陽戦は前半の得点も小松だった。ただ、2回戦は八千代松陰(千葉)に2人掛かりのマークで封じられ、1―2で敗退した。

 高校を卒業すると、釜本が監督兼選手でプレーしていた日本リーグのヤンマーディーゼルに入った。

 「多くのインタビューを受けててんぐになり、勘違いした。試合に出られない時に、その原因を考えるのではなく、『何で使わないのか』と、人のせいにした自分がいた」

 仕事をしながら限られた時間で全体練習をしていたが、それをカバーする自主練習も怠った。

 結局、ヤンマーでは、9シーズンで58試合11得点。その後、2部リーグ京都紫光クラブで2シーズンを過ごし、引退した。

現在は明徳義塾の監督

 Jリーグ京都、神戸の育成世代のコーチ、神戸学院大監督などを経て、14年から明徳義塾高(高知)を率いる。全国高校選手権に3度、全国高校総体に2度出場。15年度の全国高校選手権では、ベスト8まで進んだ。

 部員57人の約3分の2が寮生だ。自らも寮の近くに住む。「居眠りせずに授業を受けるなど、生活をしっかりしないとサッカーをする意味はないし、社会で通用しない。生活面の指導の方が多い」と言う。

 93年のJリーグ発足以降、幼少時からのサッカー人口が増え、選手の動きの質が変わったとみる。「草野球や木登りで遊んだ自分たちと異なり、小学校低学年からサッカーしかやっていないので、ボール扱いはうまい。でも、競り合いで転んだ時など複合的な身のこなしが未熟で、けがもしやすい」

 制度面では、高校世代の公式戦がトーナメントだけでなく、全国、地域、都道府県の各単位でリーグ戦が行われていることが、かつてと大きく異なる。「試合数が確保され、長期的な計画の起用ができる。毎年、夏以降に伸びる選手が出てくる」と歓迎する。

 U18日本代表の多くをJユースの選手が占めるようになって久しい。「でも、注目度の高い全国高校選手権へのあこがれは強いし、フル代表には高校出身の選手はたくさんいる。高校とJユースが切磋琢磨(せっさたくま)する時代」

 あのシーンはインターネット動画投稿サイト「ユーチューブ」でも見られる。今でも、初めて会った人からはよく「あのシュートを決めた小松か」と言われる。「悪い気はしません」

 この冬、明徳義塾は予選で敗退した。伝説のFWは来年に向けて、山あいの人工芝で選手を見つめている。