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なんもく物語

 見渡せば、人、人、人。

 記者は、そんな東京に住んでいる。

 JR山手線・京浜東北線にできる新駅の名前が「高輪ゲートウェイ」に決まった。JR東日本は、羽田空港とのアクセスの良さを生かした再開発を進め、国際交流の拠点づくりをめざしている。新駅はその中核施設との位置づけだ。

 ゲートウェイ。つまり、玄関口。海外からの旅行客がなお増え、巨大ビルがいっそう立ち並び、観光にもビジネスにも、さらなる人、人、人。

 そう思わせるニュースを、そんな世界とは縁遠い場所で聞いた。

 群馬県南牧村。なんもくむら、と読む。

 日本でもっとも高齢化が進んでいる、という。

 日本でもっとも消える可能性が高い、という。

 ロイター通信が「高齢化、縮小化との戦いのフロントライン」と表現すれば、カナダのCBCテレビは「世界で一番高齢化が進んだ国で、一番高齢化が進んだ自治体」と紹介した。特集の見出しには、同じ言葉が使われた。

 「消えゆくムラ」

 人口1875人。6割超はお年寄りだ。

 ひとが減る。ひとが消える。自治体がなくなる。

 人、人、人の街に住んでいると、正直、実感がわかない。

 でも、そんな村が都心から100キロほどのところにある。南牧村を知りたくて、10日間、腰を据えて取材することにしたのだった。

 紙袋に着替えを詰め、新幹線に乗った。東京から群馬県で最大の都市、高崎へ。駅でレンタカーを借りて走ること1時間。村に入った。

     ◇

 車で走っていて、気がついた。車内に流れるNHKのラジオに、ずっとノイズが混ざる。山のせいだ。

 調べてみると、村の総面積の9割にあたる105平方キロが森林だ。全国平均の67%よりも、ぐっと高い。高さ1千メートル前後の山岳は、実に十数にも上る。

 地元選出の国会議員のポスターがいたるところに貼られている。ただし、目についた全てが色あせていた。

 空き家も目立つ。窓が割れ、色がくすんだカーテンが揺れている。看板の文字の塗装がはがれ、シャッターが閉まった店も多く見られた。

 役場の村づくり・雇用推進課の2人に話を聴いた。

 まだ赤みが残る、生い茂った木々を指さして、高柳仁さん(35)は言った。

 「以前はあの山のてっぺんまで畑だったんですよ」

 64年前に三つの村の合併で南牧村がうまれてからしばらく、村はコンニャクイモの栽培で栄えた。

 村では「どこから見ても空が三角」と言われる。急峻(きゅうしゅん)な山が並び、稜線(りょうせん)が空を逆三角形に切り取るからだ。急斜面の土地。水はけの良さが重要とされたコンニャクイモの生産に適していた。

 ただ、品種改良や農業技術の発達により、平地での栽培が広がるようになった。大型の農機具を導入できず、大量生産できない南牧村から、一気にひとが離れた。

 もう一つの柱だった養蚕も、生糸の値段が下がると、すたれた。いずれも、1970年代のことだ。

 村でうまれ育ち、いまも暮らす高柳さんは「メディアのみなさんはよく、何が不便かと聞いてくるんですが」と僕を見た。強い目つきだった。

 「はっきり言って、特に不便はありません。買い物はインターネットでするし、近隣の自治体で多くのことが済ませられます」

 高柳さんには、同級生が16人いたが、その全員が村を離れた。それでも、高柳さん自身は「村を出る特段の理由もお金もない。自分にはこの暮らしがふつうなんで」と言った。

 今井和則さん(43)も「村暮らしでも、困ることは別にないと思う」という。近くの富岡市に家族と住んでいるが、いつか戻ってもいいと思っているから、いまはアパート住まいだという。

 南牧について、こう説明してくれた。「自治会の維持とか祭りの担い手とか地区内の見守りとか、ひとが減って厳しい面もある。ただ、みんな本当に親しみやすい。できるだけ多くのひとと話してみてください」

 ぜひ、そうしよう。

     ◇

 役場の横の2階建て。「なんもくふれあいテレビ」とある。96年に村が開設し、山がちで難視聴地域のこの村で、ケーブルテレビやインターネットサービスを提供しているのだという。インフラの整備に気をつかっていることがうかがえた。

 ここでキャスターを務める黒岩真喜(まき)さん(35)は、村の人気者。小学3年の双子と小学1年の息子3人と一緒に2016年3月、村に移住してきた。

 幼少期を高崎市で過ごし、温泉で知られる草津町で結婚生活を送っていた。南牧村のことは名前すら知らなかったが、離婚を機に移住先を探すことになり、移住促進フォーラムで、この村を知った。

 格安の村営アパートに住み、テレビの仕事も村からの紹介で始めた。

 学童保育が無料。給食費も無料。食材は近隣の市町で買いためる。衣料品はヤフーショッピングで。ポイントもたまる。生活に困ることはない。

 いまは12人が住む地区の班長を務める。ひとが少なく、みなが、みなのことをとてもよく知っている。

 「見られるのが息苦しいと思うか、温かく見守ってくれると思うか。私は後者です」

 村での滞在には、そのケーブルテレビ局から200メートルほどのところにある民宿「かわくぼ」にお世話になった。

 オーナーは岩井武さん(59)。村で生まれ、94年に民宿を立ち上げた。当時、村の人口は4千人近く。それが半減したいま、なにを思うのか。

 岩井さんは村での生活に満足している。食事の仕入れは車で1時間走り、高崎市に行けば事足りる。趣味の山登りや釣り、ゴルフをするには故郷はうってつけの環境だ。

 ただ、こうも言った。

 「活気がなくなるのはさ、さみしいもんだよ」

 岩井さんが指摘したのは、子どもの声が聞こえなくなったということだ。

 「オレが子どものときは、川ででっけえうなぎとか捕まえてたけど、いまは川遊びする子、ほとんどいないもんな」

 村にはかつて小学校、中学校が三つずつあった。いまではそれぞれ一つ。小学生は29人、中学生は14人。子どもが相手の店も立ちゆかなくなり、村では、文具を買うことすらままならない。

 岩井さんの息子ら3人は東京や大阪、高崎にそれぞれ居を構える。35歳の次男は、高崎に一軒家を建てるとき、「建ててもいいか?」と聞いてきた。

 その質問は、民宿を継がないことを意味していた。「別に、好きにすればいい」。そう答えた。家に戻れとは言えなかった。「だって、これだけ子どもがいなかったら、孫たちにさみしい思いさせちゃうだろう」

 僕は、なにも言えなかった。6畳の客間に沈黙が広がる。背後のテレビは「なんもくふれあいテレビ」を映す。画面の中で、地元の保育園児10人ほどが校庭を走り回っていた。

     ◇

 5人に3人が65歳以上のこの村では、60代でも「若い衆」と言われる。

 住民からは、困りごととか、不便さとか、そうした不満を聴くことはあまりなかった。それは役場の2人の言った通りだったが、一方、将来への不安をたくさん耳にした。

 帰るべき場所が失われるのではないか。インフラや財政が成り立たなくなるのではないか。村で生きていけなくなるのではないか。

 故郷の喪失。

 村が建てたケアハウスで暮らす笠原佳年さん(98)は毎朝5分間、6畳ほどの部屋の窓を開け、外を眺める。

 道を歩く人の姿は、ほぼ見えない。草木が生い茂る山、荒れる畑、増える墓を見て、思う。

 村は10年後、どうなっているだろう。ひとの力ではどうにもならないだろう。

 新聞のおくやみ欄を見て、「きょうは知り合いはいなかった」とほっとする日々。「川の流れをせきとめられないように、世の中の流れ、時代の流れは止められないんだねえ」

 笠原さんも、息子3人に「いつか帰って」とは言えないという。「にぎやかだった村には戻らないし、生活が大変でしょう」

 趣味は川柳。一番の自信作には、蛍光ペンでピンクの線が引いてあった。

 《今日生きて 今日の若さは 戻らない》

 自らの人生のようにも、村のありようのようにも思えた。(藤原学思、撮影=小玉重隆)