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 奈良時代に聖武(しょうむ)天皇(在位724~749年)が3年余り都を置いた恭仁京(くにきょう)の宮殿、恭仁宮跡(くにきゅうせき)(京都府木津川市、国史跡)について、天皇が重要儀式の際に出御する大極殿院(だいごくでんいん)を囲んでいたとされる回廊の南面で、掘立柱(ほったてばしら)式の簡素な塀跡がみつかった。府教委が16日発表した。奈良時代の平城宮(奈良市)や難波(なにわの)宮(みや)(大阪市)では、大極殿院の南面は南門や築地(ついじ)回廊など格式の高い構造だったが、府教委は、恭仁宮については、工期の問題などから仮設の掘立柱塀で間に合わせた可能性が高いとみている。

 府教委は昨年8~11月、宮殿の中枢部にあたる大極殿院の南側に面し、役人が政務や儀式をした朝堂院との境目付近を発掘調査。東西方向に約3メートルの間隔で五つの柱の穴が出土し、掘立柱塀があったとみられる。

 これまでの調査で、大極殿院北西角付近から築地回廊の屋根の柱を支える礎石跡がみつかり、奈良市の平城宮大極殿院から移築されたとみられることは分かっていた。今回の調査で、南面は大規模な門を持たない簡素な構造だったとみられることが明らかになった。

 恭仁京は740年、政情不安の中で聖武天皇が平城京から遷都。744年に都は難波に移った。奈良時代の基本史料「続日本紀(しょくにほんぎ)」は恭仁宮の造営は難航し、多大な出費を強いられたと記す。府教委の岡田健吾技師は「重要儀式に移築が間に合わず、とりあえず掘立柱塀で完成させたのかも」と話す。

 現地説明会は19日午後1時半から。問い合わせは府教委文化財保護課(075・414・5903)。当日は現地事務所(0774・76・2313)へ。(伊藤誠)