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 米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の名護市辺野古への移設計画で、政府は知事選などに示された民意に耳を貸さず、工事を強行している。それでも玉城デニー・沖縄県知事(59)が「対話」にこだわるのは、なぜなのか。沖縄の歴史と重なる自らの体験を踏まえ、思いを語った。

 ――知事は「コザ暴動」を目撃されたとか。

 小学校5年生でした。そのころ私はコザ市(現沖縄市)の「センター通り」から100メートルほど離れた所で母と2人で暮らしていました。

 日曜の朝は毎週、ボーイスカウトの集会に参加していましたが、その日は前夜から外を人が走り回り、異様な雰囲気でした。朝、いつもより早く起きて、ボーイスカウトに一緒に行く隣の同い年の友達とその兄弟を誘い、見に行きました。

 「ゲート通り」の胡屋十字路から嘉手納基地ゲートに近い所では、車があちこちでひっくり返って燃やされ、まだくすぶっていた。タイヤの焼ける臭いがあたりに充満し、戦争でも起きたのかと思いました。

コザ暴動
1970年12月20日午前1時すぎ、米兵が起こした軽傷交通事故をきっかけに、集まった群衆が米軍関係者の車両に次々と火を放ち、投石などを繰り返した。当時、主婦をひいて死亡させた米兵が軍事裁判で無罪になったり、基地内にVXガスやサリンなどの化学兵器が保管されていることが発覚したりして、県民の米軍への反発が渦巻いていた。

 何が起こったかわからない恐ろしさを、今でも鮮明に覚えています。米兵による事件事故などの抑圧された状況と、1970年前後のストライキなどの社会情勢がありました。

 65年からは米国がベトナムを爆撃し始めた(「北爆」)。戦争という状況下、沖縄はベトナムを爆撃するB52の前線基地。ベトナムで亡くなった兵士が米国に帰る前に沖縄で葬送されるとか、戦争でガタガタに壊れた車が基地の中に並んでいるとか、目の前に悲惨な状況がありました。

 大人になって考えてみると、コザ暴動は間違いなく、沖縄県民の鬱積(うっせき)したマグマが噴き出した瞬間だったと分かります。

 ――コザ暴動時は米軍の抑圧。今は日本政府。沖縄は集中的に米軍基地のプレッシャーを押し付けられています。

 当時は米軍施政権下。72年に施政権が日本に返還されるまでの27年間、米軍は人権を蹂躙し(じゅうりん)、住民の命を髪の毛ほどにも思わなかった。暴動が起きたのは、それだけ様々なプレッシャーが当時の沖縄県民にかかっていたということ。

 そして今、そのプレッシャーが…

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