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 日本各地、ほとんどの市町村にある「遺跡」。過去の人間の営みの跡である家、墓、城などあらゆるものが含まれるのですが、その保存と活用をめぐっては、あちこちで議論が起きています。遺跡は一体誰のものなのか。どう残し、どう活(い)かすのが望ましいのでしょうか。

石垣保全 揺れる名古屋城

 日本100名城にも選ばれた名古屋市の名古屋城では今、木造による復元天守を建てるために、江戸時代の石垣に手をつけるべきかという議論が行われています。

 現在の天守は1959年に再建された鉄筋コンクリート製ですが、その下にある高さ約20メートルの石垣は1612年の築城時から残る本物。築城名人と言われた戦国武将・加藤清正が関わったもので、専門家は「名古屋城の本質的な価値は実は石垣にある」と指摘します。

 市は、石垣で囲まれた天守台内部に埋め込まれたコンクリート構造物で復元天守を支える工法を計画しており、これには石垣の上部をいったん外す必要があります。しかし、市が設置した有識者会議「石垣部会」は「天守を史実に忠実に復元するために、江戸時代から残る石垣に手を加えるべきではない」と反発。「石垣の保全が先決だ」というのです。

 名古屋城跡は国の特別史跡のため、現在の天守の解体や新たな建築には文化庁の許可が必要です。文化庁は、市に石垣部会の了承を得るよう求めており、石垣の調査自体が不十分な現段階では木造復元の前提となる条件は整っていないとの立場です。

 「いったん石垣を崩しても、同じように積み直せばいい」という意見もありますが、「石垣は外側の石だけでなく、裏込めの石、土も一体となって遺構を形成」(名古屋市の担当者)しています。このため、「一度崩せば、その現状が変わってしまう」(文化庁の担当者)のです。石垣を構成する材料やそこに使われた技術は「歴史の証拠」であり、「外見だけ同じように積み直しても意味がない」と専門家は話します。

 名古屋市は「外す上部の石垣は、戦後に復興天守閣を作る工事で積み直されたもので、江戸時代からの石垣を壊すのではない」と説明しています。これで専門家や文化庁の理解が得られるのかどうかはわかりませんが、名古屋城天守の石垣は足場で覆われ、一石一石ずつ詳細を確認する調査が進められていました。

 このように、遺跡をできる限り昔の状態のまま残すことを「現状保存」といい、文化庁などはそれを遺跡保存の原則にしています。文化庁が発行する「発掘調査のてびき」の冒頭では、「地域の歴史を証言する埋蔵文化財は、未来に伝えるべき存在であり、現代においてそれを失うことは極力避けなければならない」とうたっています。ある文化庁幹部は「文化財は残っている本物を残すのが第一。現状をそのまま残せば、将来、技術が発達した時、現在ではわからない新発見があるかも知れない」と話します。

 現在、石垣の大改修を行っている弘前城(青森県)でも、当初は2518個の石を取り外す予定でしたが、できる限り残すことにし、予定より数百個少ない2172個にとどめました。弘前市の担当者は「原則は現状維持」と説明します。

 2016年の熊本地震で石垣が大きく崩れた熊本城(熊本市)の復旧でも議論が起きています。熊本市は昨年3月にまとめた基本計画で「安全確保と文化財価値の保全を両立する」方針を示し、可能な限り当時の技法で元の石材を使うとしながら、耐久性のため「現代の工法」を使う可能性にも触れています。

 たとえば、石垣の内部に強度のあるネットを入れたり鉄筋を差し込んだりといったことはどこまで許されるのか。現状保存と安全確保の難しいバランスが求められています。

 名古屋城のように、松前城(北海道)や高松城でも木造天守の復元や再建が検討されています。いずれも城跡は史跡で、勝手に建てることはできません。文化庁は昨年11月、史跡での天守など歴史的建造物の復元のあり方について話し合う有識者のワーキンググループを設置しました。文化庁は1991年に示した基準で、発掘調査による構造把握や細かな状況がわかる設計図などの存在が確認できる場合にしか復元のような「現状変更」はできないとしてきました。ただ、史跡そのものへの理解を深めるためにも、守りながら柔軟な復元にも道を開く方法を探り始めたのです。

発掘年8千件超 大半は破壊

 文化庁によると、現在、日本全国で発掘される遺跡は年に約8千件超。しかし、そのうちのどれが残るのかは「事業者の計画や理解、遺跡の内容や構造によって千差万別。一律には言えない」(禰宜田〈ねぎた〉佳男・主任文化財調査官)。

 ただし、実施されている発掘調査のうち、9割以上は、その場所の土地開発行為に伴う「緊急発掘調査」です。このため、発掘によってデータを「記録保存」した後は、その大半が壊されてしまいます。発掘後も残され、私たちが今なお見学できる遺跡の多くは、行政が保存を決断したり、市民が保存を要望したりした結果、残ったものなのです。

 2005年からの発掘で東日本で最古級の古墳である可能性が高まった高尾山古墳(静岡県沼津市)が道路建設予定地にかかり、住民や研究者らの保存運動によって破壊が撤回されたのが好例です。

 こうした遺跡をめぐる保存運動は、1960年代、平城宮跡(奈良市)での鉄道検車区建設計画を阻止しようと活発になり、全国へと広がりました。特に60~70年代は高度成長期で公共事業や宅地開発が盛んに行われ、全国の多くの遺跡が危機にひんしていました。一昨年、国の特別史跡に指定された、貝塚としては日本最大級の加曽利貝塚(千葉市)も住宅建設のため、その半分近くが買い取られようとしていました。しかし、「住民や研究者が反対運動をした結果、国会で遺跡の価値を巡って質疑が行われ、その結果、行政の買い取りへと進むことができたのです」と、千葉市埋蔵文化財調査センターの西野雅人所長は振り返ります。

保存法巡り 市民と行政対立

 保存されることが決まっても、その方法をめぐり、市民と行政が対立することもあります。

 長崎市では、幕末に開かれた日本初の西洋式病院「小島養生所」の遺構が小学校の校舎建て替えに伴う発掘で見つかったものの、建て替えとの兼ね合いで、遺構は建物の下で保存されることになりました。

 市は、保存状態の良い部分は地中から掘り出すことで風化して劣化しないよう土に埋め戻し、基礎杭などを打たずに体育館の下で保存。また建設の支障となる部分は記録保存することで、「遺跡の保存と学校建設の両立を目指す」としています。

 しかし、完全な保存を求めている市民団体の共同代表、鮫島和夫さんは「『記録保存』というと、あたかもそれで遺跡の破壊が許されるように聞こえるが、ごまかしだ。養生所は1950年ごろまで、石垣や階段、擁壁が露出していた。この遺跡の重要な点は、小島養生所がその後、医学校などへと変化を遂げていったことが分かる建物がそのまま残っていたことで、その状況を見せようとしない校舎下の『保存』には意味がない」と主張します。

 工事はすでに進んでおり、その過程で石垣などが壊されているのを確認したため、鮫島さんらは昨年、中止を求めて住民監査請求をしましたが棄却。住民訴訟を起こしました。

 鮫島さんたちは、長崎県庁が移転した跡地に文化芸術ホールを整備する計画に対しても、見直しを求めています。県庁跡地はオランダ貿易の拠点だった出島の向かい側にあたり、かつてはイエズス会の教会が建ち、江戸時代には長崎奉行所や医学伝習所があった場所。「ここに県と市の計画通り1200席規模のホールを作れば、石垣などの残された遺構を傷める」と懸念します。

 とはいえ、住宅や道路の建設予定地に遺跡があることが分かっても、その上に厚く土を盛り、遺跡を土中で保存しながら建設工事を行うことはしばしば行われています。この場合、全面的な発掘などは行われず、将来その建物や道路が壊される時まで遺跡は日の目はみないわけですが、手をつけないまま未来に残すことになりますので、必ずしも悪いことではないとも言えるでしょう。

遺跡公園 維持管理が課題

 保存が実現した遺跡は、地域の有力な観光資源になります。弥生時代の復元建物が立ち並ぶ吉野ケ里歴史公園(佐賀県)には年によっては70万人以上が訪れ、累計入場者は1千万人を超えます。縄文時代の大集落で有名な三内丸山遺跡(青森市)にも毎年30万人が訪れます。両遺跡とも、弥生のクニや縄文のムラに迷い込んだような気分にさせてくれます。

 ただ、こうした復元建物をはじめとする遺跡公園は、維持管理が課題です。弥生時代の環濠(かんごう)集落を保存した田和山史跡公園(松江市)は、園内の竪穴式住居に傷みが目立ちます。松江市によると、開園以来、ふき替えをしていないそうです。

 このような復元建物に代わる方法として、最近注目されているのが、VR(仮想現実)やAR(拡張現実)で、タブレットや特別なゴーグルに過去の遺跡の姿を復元して見せる方法です。三重津海軍所跡(佐賀県)や屋嶋城(高松市)などで採用されており、好評です。

 「広場」になった遺跡もあります。中里貝塚(東京都北区)はカキなどの貝の加工場跡が見つかった縄文時代の遺跡です。区によると、遺跡の場所の一部にはマンション建設計画があり、地元の人たちは当初、「マンションが建たず、新しい住民が来てくれないと、地区の高齢化が進むのでは」と危惧していました。しかし、貝の加工場が全国的にも貴重で、縄文人の暮らしぶりを知ることができる遺跡であることを説明すると、「そんな大切なものなら、壊してはいけない」という意見に変わってきたそうです。現在、この貝塚の跡地は中里貝塚史跡広場になっており、住民たちが片隅で花壇をつくったり、関連イベントに使ったりしています。

 文化庁は、埋蔵文化財は貴重な国民の共有財産、との立場です。でもいくら遺跡を残して公園をつくったり、名古屋城のように復元天守をつくったりしても、地元の人たちが愛してくれなければ、遺跡は地域から遊離し、場合によっては荒れていきかねません。

 阿部芳郎・明治大教授(考古学)はこう話します。「重要なのは将来、遺跡をどのように整備・活用していくのかという将来像を住民と行政が共有すること。考古学が好きな人以外にも興味をもってもらい、彼らも共有できる空間をいかに作っていけるかがかぎだと思います」

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 日本の埋蔵文化財行政では、開発を前提とした大規模発掘などに伴う費用の多くは、原因者負担の原則によって、その開発の結果、利益を得ることになるであろう企業などが負担しています。これは今や全世界的な傾向です。

 現在では、開発の初期段階で業者と行政が入念に調整を行い、企業の社会貢献という観点から、文化財保護と開発の両立を図ろうとするケースも増えてきています。

 東日本大震災の復興計画に伴う緊急発掘調査も、厳しいスケジュールのなか、行政措置として、多くの機関の協力のもと、実施されました。

 発掘は多くの考古学的情報をもたらしてくれますが、遺跡の破壊という側面も伴います。そんな「国民の共有財産」をいかに保存し、活用を通じて、いかに地域の宝にしていくかが、問われています。(編集委員・宮代栄一)

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 ◆ほかに上田真由美が担当しました。

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