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 戦後74年となり、まもなく平成が終わる。戦争の記憶が薄れていく中、中国東北部で取材する記者の大きなテーマの一つに「中国残留日本人孤児」をめぐる問題がある。

 終戦後の混乱期、旧満州で親と別れて置き去りになった人たち。日本政府はこれまでに、養父母らからの聞き取りや、実の両親が現地に残した証明書などを基に2818人を残留孤児と認定した。一方で、中国には今も「証拠不足」のまま、認定を求め続けている人たちもいる。

 「差別を恐れて言い出せなかった」「後年になって出自の詳細を知った」など調査が遅れた事情はそれぞれ違うが、時間の経過とともに状況を知っていたはずの養父母や関係者が亡くなるなどし、新たな証拠集めが難しくなる状況は共通している。

 2012年を最後に新たな認定者はいない。今なお「私は何者なのか」と自身に問い続け、「故郷」に焦がれ続ける人たちは、どんな思いを持ってきたのか。

子どもにも出自話さず

 黒竜江省の東部、ロシア国境に近い牡丹江市から車で約40分。かつて日本の関東軍の飛行場が置かれ、周辺にいくつもの満蒙開拓団の村があった東京城鎮という街に黄桂香さんは暮らす。

 1940年9月2日とされている戸籍の誕生日に従えば、78歳になる。だが、本人は「76歳」と言う。

 「本当は誕生日もわかっていません。54年に人口調査があった時に『もっと若いはずだ』と言われたので、それから年を二つ若く言うようになりました」

 一番古い記憶をたどった先にあるのは、東京城に近い農村で養父母と暮らす自分だ。兄弟姉妹はいなかった。養母にはよくしかられ、「小日本の子め、養子にもらってやったのに」とも言われた。

 「意味はよく理解できなかったのですが、日本ってなんだろうという強い印象だけが残りました」

 少し大きくなると、周りの子どもたちにいじめられ始めた。「日本の子どもは悪いやつ。誰が遊ぶか」。家にこもりがちになったが、やがて、年が近くてやはり「日本人」だという女の子と、2人の高校生くらいの年上の女性が遊んでくれるようになった。

 「年上の2人はよく、オンドルの上に座って知らない言葉で話していました。そして時々、目に涙を浮かべていました」

 年が近い子は幼くして亡くなり…

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