拡大する写真・図版 社会人1年目の柴原理沙さん=JR東京駅前

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 供給が止まった水道や電気。そして、父親の出身地の福島で起きた原発事故――。東日本大震災で身にしみたのは生活インフラやエネルギーの大切さだった。震災当時、仙台市の中学3年生だった柴原理沙さん(23)はいま、資源の安定供給に関わる仕事に携わる。夢を後押ししたのが、震災の経験だった。

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 遅めの昼食をとっていた2011年3月11日午後、大きな揺れがおそってきた。自宅は仙台市宮城野区の14階建てマンションの11階。あわてて食卓の席をたった直後、後ろにあった大きな食器棚が倒れてきた。「死んでいたかもしれない」。揺れは長く続き、あらゆるものが落ちて壊れ、足の踏み場はなかった。

 翌日が卒業式の予定だった。中学校は押し寄せた津波で校庭や校舎の1階が浸水。自宅の近くまで津波が来ていたことは後から知った。夜のラジオニュースが、沿岸部に「200人以上の遺体」と伝えていた。

 「もし中学校の方に逃げていれば、津波に巻きこまれていたかもしれない」。柴原さんは8年になる今も、恐怖感とともに当時の記憶がよみがえってくる。

 命は助かったものの、マンションは電気と水道の復旧に1週間、ガスの復旧に約1カ月かかった。停電でエレベーターが動かない中、11階まで階段で上り下りし、水や食料を何度も運び上げた。1週間は風呂にも入れなかった。

 そして、東京電力福島第一原発の事故。当時、東京に単身赴任していた会社員の父親(55)の出身地は福島県だった。かつて遊びに行ったことのある土地に、大量の放射性物質が飛散し、多くの人が避難を強いられている。事故は人ごととは思えなかった。

 携帯のメールには「仙台にも放射性物質が飛んでくる」「外に出ない方がいい」「マスクをした方がいい」などの情報が飛び交っていた。それまで原発のことは考えたこともなかったが、エネルギーとは何かを考えるきっかけになった。

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 震災翌年の10月、仙台市で国際通貨基金(IMF)・世界銀行年次総会が開かれた。仙台一高に進学していた柴原さんは、津波で自宅が全壊した同級生と2人で、総会の開会式で震災の経験や教訓を英語でスピーチした。

 自らの被災状況を伝え、近隣や周囲の人たちと情報を共有することの大切さを訴えた。将来、国際的な仕事をすることを意識するようになったのもこの頃だ。

 早稲田大学に進学して上京。3年生の就職活動の際に胸によぎったのが「人生の中で一番大きな出来事」だったという震災のことだった。「社会の根底を支えるような、インフラやエネルギー関係の仕事に就きたい」と思った。

 昨春から、資源の安定供給に関わる仕事に就いた。石油や天然ガスに興味があるが、現在は金属資源の部門に配属されている。

 福島ではいまなお4万人以上が避難を続け、第一原発では先の見えない廃炉作業が続く。被爆国である日本で起きた原発事故。柴原さんは「個人的には、原発以外の発電で電力がまかなえるのであれば、そうすべきだと思う」と話す。

 私たちの体験が生かされることを願ってやみません――。7年前の国際会議のスピーチを友人とともにそう締めくくった柴原さん。「勉強しながらですが、充実して仕事ができている。いろいろな分野を経験し、日本の資源の安定供給にちょっとでも貢献できればいい」と未来を見据えていた。(柳沼広幸)