蘇る記憶、福島第一原発の日常 元運転員の記者が再訪

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編集委員・大月規義
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 その運転員は「私」だった可能性だってある――。東電社員として、東京電力福島第一原発で働いていた記者がいます。夜勤で食べた香辛料のきいたカレー、先輩からの忠告……。25年ぶりにその心臓部に入って、当時の記憶がよみがえります。それとともに頭をよぎったのは、未曽有の大事故に遭遇した、かつての自分と同じ運転員への思いでした。

 全面マスクを装着し、海岸に近い非常用の入り口をくぐる。事故後、臨時で設けられたケーブルなどにつまずかないよう、慎重に歩き、真っ暗な一室にたどり着いた。うぐいす色の操作盤。そこに携帯式の白色ライトを近づけると、鉛筆で書かれた数字がうっすらと浮かんだ。

 「21°30 +40cm」

 そのすぐ左には、針と目盛りの付いたアナログな「水位計」があった。

 部屋の名前は、中央制御室。東京電力福島第一原発の1号機と2号機をまとめて運転・管理していた場所だ。通称は「中操(ちゅうそう)」といわれる。大昔、正式名称が中央“操作”室だったころの名残だ。

 鉛筆書きの数値は、2011年3月11日の21時30分時点で、原子炉にどれだけ「水」があったかを示していた。巨大な津波に襲われて半日たった時点だ。

 ふつうの沸騰水型炉なら、燃料集合体は冷却水の水面から4~5メートル以上深い位置に沈んでいるが、記録が正しければ、水面は残り40センチのところまで迫っていた。津波の浸水ですべて停電していたさなか、運転員が記録したものだ。

 あれから8年近くたつ。2月15日、私を含め朝日新聞の記者3人とカメラマン2人で、中操に取材に入った。

 運転員はなぜ、ノートやメモ帳ではなく、操作盤にじかに水位を書き込んだのか。案内役をしてくれた東電の報道担当者に聞くと、こんな推測が返ってきた。

 「まったく明かりがないなか…

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