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  プロローグ

一九三八年十月

 

 黄色い砂の海がどこまでも続いていた。

 タクラマカン砂漠は、うねりながら、先を急ぐ一人の旅人を今にも飲みこまんとしていた。

 その人物は、深い思索的な眼差(まなざ)しと人並み外れて大きな鼻をした、五十がらみの男だった。ラクダの手綱を引き、息も絶え絶えに歩きながら、

「い、急がねば、ならん……」

 と、呻(うめ)いた。

「わしは、急がねばならん……。奴らにあの魔法を使わせないために……」

 砂山の向こうから橙(だいだい)色の夕日が射(さ)し始めた。

「ま、まだ、間に合うはず」

 気温がぐんぐん下がり、空が藍色に変わって、やがて夜の星も瞬きだした。

 男――猿田博士は、苦しげに足を止めた。ガクリと膝(ひざ)をつく。

 そして天を見上げ、吠(ほ)えた。

「逃げろっ、世界!」

 

 

  一章 上海

一九三八年一月

 

  その一 關東軍(かんとうぐん)ファイアー・バード計画

 

 外灘(バンド)は、川沿いに連なる、上海でひときわ華やかな大通りだ。洋風ビルの石造りの壁、尖(とが)った時計塔、夜も輝く色とりどりのネオン。

 日本軍の侵攻で、この上海も二ケ月前までは戦場だった。だが租界(外国人の居留地)の多いこの街は、徐々に以前と変わらぬ喧騒(けんそう)を取り戻しつつあった。

 広い道路を、黒塗りの車と人力車が行き交い、建物のどこからか、ジャズの演奏や嬌声(きょうせい)が聴こえてくる。

 ヨーロッパ風のシャンデリアと大理石の床が自慢のキャセイ・ホテルのボールルームでは、日本大使館主催の大夜会が繰り広げられているところだった。

 スーツ姿の政治家に、着物姿の財閥関係者、中国人商人……。二百人以上もの客が歓談する声と、バンドが奏でる音楽が入り混じる。

 部屋の真ん中に、大日本帝国の軍服姿の男たちが集まり、日本製のビールで杯を交わしては、大声を上げていた。時折「ひゃーはは!」と下卑た笑いを響かせるので、客の中には眉を顰(ひそ)めて振り返る者もいるが、軍人たちは気にする様子もない。

 そのグループの中心に、すらりと背の高い三十がらみの美男子がいた。大きな目をぎらつかせ、いかにも自信満々に仁王立ちしている。

 仲間が口々に「日本軍は北京を制圧した」「この上海も」「南京もだ」「しかもあっというまにな」と笑うと、男は「そうさ。中国なんてもう……」と満足そうにうなずいた。

 そして両腕を広げ、

「揚子江の水まで日本のモンさ! アーハハハ!」

 と、うそぶいてみせた。

 男の声がホールに響き渡り、客たちがちらちらと振り返った。小声で「あの男は?」「關東軍の間久部緑郎(まくべろくろう)じゃないか。陸軍大学校出のエリートで、いまは司令部付きの副官だ」「へぇー、じゃ、あいつが間久部ですか」と噂(うわさ)し合う。

 事情通らしき男が、「ご存知(ぞんじ)ですか? 去年、上海の財界を牛耳る三田村財閥の末娘と結婚したんですよ」と補足すると、周囲が「なるほど、将来を約束された男ってわけか」とうなずく。

「そういうことです。おや、ほら、噂をすれば……」

 バンドの演奏がテンポの速い曲に変わった。

 ホールの中心に若い女が踊り出てきた。真っ黒なボブヘアーに、大粒真珠のイヤリング。鮮やかな緑のチャイナドレス姿。黒目がちで、気の強そうな顔つきをしている。「三田村財閥の末娘、麗奈(れいな)さんだよ。あれでなかなか夜遊びの達人さ」という囁(ささや)きが周囲に広がる。

 軍服の青年――間久部緑郎が、一緒に踊ろうと手を差し伸べた。だが麗奈は、その手をピシャリと叩(たた)いて拒絶した。緑郎は唇を嚙(か)み、ゆっくり手を下ろす。周囲に戸惑いのざわめきが広がる。

「どうやら、夫婦仲には早くも暗雲がたれこめていそうですな」

 という嘲笑の声が緑郎の耳にも届く。緑郎はムッとして麗奈から目をそらした。

 麗奈は、両腕を振りあげ、むっちりと白い太ももを覗(のぞ)かせて、玄人はだしのステップで激しく踊りだした。客たちが歓声や口笛を浴びせる。

 麗奈は髪を振り乱し、汗を飛ばして踊りながら、バンドの端で、枝のような形をした見慣れぬ形状の笛を吹いている白人の女に近づいた。亜麻色の長い髪に青い目をした、長身の若い女だった。

 麗奈が「姑娘(グーニャン)(お嬢さん)」と上海語で話しかけ、

「跳舞口巴(口偏に巴)(テォーウバ)(踊りましょ)!」

 と誘うと、女はびっくりして演奏をやめた。「いいでしょ!」と腕を引かれ、「是了(ズーラ)(了解した)」と重々しくうなずいてフロアに滑り出てきた。そして麗奈と背中をぴったりくっつけ、踊り始めた……。

 

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 ――時は、一九三八年一月。

 日本が、二百年以上続いた江戸幕府の鎖国を解き、開国して、「ザンギリ頭を叩いてみれば、文明開化の音がする」と近代国家への道を歩み始めてから、早くも八五年もの月日が過ぎていた。

 アジア、アフリカ各国が、英、仏、米など、欧米の大国に植民地化され、苦難と屈辱の道を歩む中、大日本帝国は、一九一八年に終結した世界大戦でも戦勝国側に連なり、アジア随一の帝国への道を歩みだしていた。

 一九三一年、關東軍(中国の關東州などを守備する日本陸軍の軍隊)が、東北部で満州事変を起こし、日本の傀儡(かいらい)政権(独立国という名目だが、じつは支配されている)満州国を作った。中国では抗日運動が盛んになった。一九三七年の夏、關東軍は日中戦争を起こし、中国の北京、天津、上海、続いて南京を制圧した。

「この勢いで、大日本帝国はやがてアジア全域に領土を広げるだろう」という未来予想図を抱き、日本軍は中国大陸の西へ南へと進撃を続けていた――。

 

 

 ……緑郎は、麗奈と踊る笛吹きの女を、つい目で追っていた。「白系露人(ロシア革命から逃れてきた旧ロシア帝国の亡命者)だろうな。あの鮮やかな髪、冷えた宝石のような目!」とみとれていると、背後で「ウォッホン! 間久部くん」と聞き覚えのある咳(せき)払いがした。

「美女にみとれておるのかね。まっこと、花は咲きたがる、青年は恋をしたがる、そして、わしのような生物学者は、未知の事象を求めてカビくさい研究室にこもるというわけじゃな。ふぉっ、ふぉっ!」

「はぁ?」

 と振り向くと、人並みはずれて大きな鼻をした五十がらみの小柄な男が、目を細めて緑郎を見上げていた。

「なんと、猿田博士! お久しぶりです」

「うむ。君の卒業以来かねぇ。陸軍大学校では優秀な成績を修めていたな。最近もご活躍のようじゃないか」

「いやぁ、ありがとうございます」

 二人は笑顔で握手を交わした。

「博士は、じゃ、いまはこの上海でご研究を?」

「いいや。満州国の研究機関、大陸科学院に籍を置いておる。ところで、最近とある発見をしてね。君の義父上(ちちうえ)である三田村要造氏が、大いに興味を持ち、こうしてわしを呼びだしたのだよ」

「ええっ! 義父が……!」

 と、緑郎は瞬きし、急に油断ない目つきになった。

 猿田博士も「そうなのじゃ」とうなずいた。警戒するように周囲を見回してから、声を落とし、

「知ってるかね、間久部くん。――“火の鳥”の伝説を?」

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