[PR]

高屋ツタヱさん(1929年生まれ)

 家族の写真がたくさん飾られた団地の一室。北九州市若松区の高屋(たかや)ツタヱさん(89)が暮らす。6年前に亡くなった夫の遺影に話しかけるのが、毎日の日課だ。よく外に出かけ、月に2回は老人クラブ、6回は夫から引き継いだカラオケの指導をしている。演歌を習う「教え子」は20人ほど。最高齢は96歳という。

 若いころは、社交ダンスなどの踊りが好きだったツタヱさん。テレビで、人気グループ「三代目J Soul Brothers」を見ると、思わず体が動いてしまうという。「コブクロ」や「ゆず」もお気に入りだ。

 結婚するまで、生まれ育った長崎県長与村(現長与町)で暮らした。原爆投下後に救護隊として活動し、長崎市内に入って被爆した。原爆の影響からか分からないが、右目を失明し、左目も白内障の手術を受けた。不整脈で胸にはペースメーカーを抱えている。

 被爆後の人生は苦労も多かった。でも「今は幸せ。90歳近くまで元気で生きられて」。そう言って、かわいらしく笑う。

 母親の入江ツ子(ネ)さんは農作業をし、実父の竹市(たけいち)さんは、大村湾に面した三菱兵器製作所堂崎工場に勤めていた。当時、三菱兵器製作所は長崎市の大橋町と茂里町の2カ所に主工場があり、堂崎工場は分工場だった。

 竹市さんは、完成した魚雷を納める仕事をしていた。納入先があった佐世保から帰宅すると、食パンを買ってきてくれた。竹市さんは「イギリスパン」と呼んでいた。「おいしくて、この年になっても忘れられない」と笑う。ツタヱさんが小学校4年の時、竹市さんは肺結核のため、亡くなった。

 きょうだいは、養父の留吉(とめきち)さんの娘を含め6人いた。しかし、長男の豊(ゆたか)さんは10歳の時、腎臓の病気で亡くなった。「優しかった兄。いつも兄がいてくれたらな、と思っていた」と振り返る。

 ツタヱさんは長与国民学校を卒業後、13歳の時に実父の職場だった三菱兵器製作所堂崎工場で働き始めた。実家からは船で通った。魚雷の性能検査をする工場で、欠陥のある魚雷を修理する作業をしていた。

 働き始めて2年後の8月9日。工場で昼食の支度をしていたところ、屋外が「ぶわぁーっ」と辺り一帯が明るくなった。「これ、何?」と思った瞬間、爆風で吹き飛ばされた。一部が大村湾に面していた工場は爆心地から約11・5キロ。「歩いて何時間もかかるくらい離れているのに、光と爆風がすごかった」

 上司に言われて峠を登り、長崎…

有料会員限定記事こちらは有料会員限定記事です。有料会員になると続きをお読みいただけます。

有料会員限定記事こちらは有料会員限定記事です。有料会員になると続きをお読みいただけます。

有料会員限定記事こちらは有料会員限定記事です。有料会員になると続きをお読みいただけます。

有料会員限定記事こちらは有料会員限定記事です。有料会員になると続きをお読みいただけます。

980円で月300本まで有料記事を読めるお得なシンプルコースのお申し込みはこちら