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  その二 西太后のため息

 

 フランス租界は、川沿いの繁華街、外灘(バンド)から内陸に少し奥まったところにゆったりと広がっている。石畳の古路が薄墨色の月明かりに照らされる。正人は痛む体を引きずりながら、アジトに向かっていた。

 古い石の門をくぐり、金木犀(きんもくせい)の木が夜空を覆う狭い路地を進んでいく。茶館の看板を出す老房子(ラオファンズ)(中洋折衷のコンクリートの建物)の前で立ち止まった。

 罅(ひび)の入った飾り硝子(ガラス)の扉を開けると、狭い店内は、中国茶を飲んだり水煙草(たばこ)をふかす客でごったがえしていた。

 煙草や食べ物、排泄(はいせつ)物の臭い、それに阿片(アヘン)の残り香もかすかに漂っている。

 正人は急いで奥に進んだ。本棚の前に立ち、小声で、

「天王蓋地虎(ティワンゲーディフ)(天の王は地の虎を抑える)!」

 一拍おいて、棚の奥から、合言葉が返ってきた。

「宝塔鎮河妖(ボータズンフウヨー)(宝の塔は河の妖怪を鎮める)!」

 扉のように本棚が開き、茶館の客たちも気づかぬうちに、正人の華奢(きゃしゃ)な体をスルリと飲みこんだ。

 隠し部屋はさらに狭かった。天井から無数の鳥カゴが下がり、鳥の鳴き声が響き渡る。その下で、粗末な服装をした八路軍の兵士が十数人、肩を寄せあっていた。

 ――二十六年前、“眠れる獅子”と世界から敬われた大国、清が滅亡。以来、中国大陸では、孫文が立ちあげた中国国民党、毛沢東が率いる中国共産党、大小様々な軍閥などが入り混じる、混乱の戦乱時代が続いた。同時に、西からは植民地政策を進める欧米各国に、北からはロシアに、そして東からは日本にと、広大かつ肥沃(ひよく)な国土を狙われていた。

 昨年の夏、日中戦争が勃発した。そこで中国共産党と中国国民党は、協力して日本と戦おうと、争いをやめて手を結んだ。八路軍とは、中国国民党と手を組んで抗日活動するための中国共産党の軍なのである。

 兵士の一人が「正人!」と顔を輝かせて叫んだ。ルイだった。仲間をかきわけて駆け寄り、「怪我(けが)してるね? でも戻ってこられただけで奇跡だよ!」と首根っこに抱きつく。

 リーダーらしき年配の男が「同志(ドンズ)正人、さっそくだが、ファイアー・バード計画について君からも説明したまえ」と命じる。正人がうなずき、ルイと並んで「はい。ぼくらが盗み聞いた話では、タクラマカン砂漠の……」と説明しだす。

 そのとき、部屋の隅にいた童顔の痩せた兵士が「待てよ!」と立ちあがった。兵士たちが振りかえる。

「この日本人を信じるのか。憲兵にパクられて、すぐ帰ってこれたなんて、変だぜ。日本に通じる二重スパイにちがいない」

「そんなはずない。正人はいい人だし、二重スパイなんて、ここにはぜったいに一人もいない」

 と、ルイがむきになって反論した。兵士たちが黙って顔を見合わせる。

 正人は顔を真っ赤にし、つっかえながら、

「ぼ、ぼくは、共産主義(貧富の差のない平等社会を目指す思想)を信じる者だ。まず、すべての人間が真に平等になること。そして、国家であれ個人であれ、誰かの傀儡(かいらい)(操り人形)にならず、自己決定の自由を持つべきだと考えてる」

 拳を握り、

「中国的自治権(ゾンゴディズズージュ)在中国人手里(ラゾンゴニンソリ)(中国の自治は中国人の手に)!」

 と言うと、「よし!」「いいぞ、同志!」と拍手が湧いた。天井の鳥たちも鳴き声を木霊(こだま)させる。

 リーダーが正人の肩を抱き、「この青年は、上海に渡ってから、我々中国共産党の思想教育を受けた。私も教官の一人だ。志は同じ。みんな、わかったな」と兵士たちに言い聞かせる。

 拍手が大きくなる中、痩せた兵士だけが納得できないように黙りこくっている。ルイが気づいて、「ねぇ、正人はいいやつだよ。あのね、初めて会ったとき、共同租界で、車に脚を引かれた犬を介抱してたんだ。二度目は外灘で、酔客にからまれたボクを助けてくれた。それで仲良くなったの。だから、その……」と言い募る。

 童顔の痩せた兵士は、肩をすくめて、

「わかったよ。ルイちゃん。でも……」

 と、心配そうに顔を伏せた。

写真・図版

 

 

「つまり、日本軍の現地調査隊に、正人がガイドとして同行することになったんだな。それは我々にとっても好都合だ。やつらをスパイし、我々に逐一報告しろ」

「え、ええ……」

 リーダーの言葉に、正人はうなずいた。

「もう一人同行させよう。よしルイ、おまえも行け。正人は、信頼できる中国人も連れて行くと、兄に連絡しろ」

 ルイが「役に立つなら、ボクなんでもするよ」とうなずいた。それから「いけない。大世界(ダスカ)の舞台に立つ時間だ。もう行くね」と立ちあがった。

 心配そうに振りむき、「正人……。どうも浮かない顔だね。どうしたの」とこっそりささやく。

「あぁ、いや。兄をだましてスパイするなんて、と思ってね……」

「なに言ってるの。兄弟でも、敵だ!」

 とルイがこともなく答えた。正人が「えっ。うん、そうだね。その通りだよ……」とうなずく。痩せた兵士が壁にもたれて、そんな正人の横顔をじっとみつめる。

 天井の鳥カゴが揺れて、鳥たちがまた、甲高い鳴き声を上げた。

 

写真・図版

 

 冷えた石畳の古路を、ルイが小股で走っていく。

 ネオンきらめく大通りに出ると、租界の夜の喧騒(けんそう)が急に間近に迫ってきた。人々を乗せた緑の路面電車が、ゴォーッと音を立てて通り過ぎる。通りの左右に小売店が連なり、きらびやかなウインドウに、ハンドバッグやドレス、シルクハットに燕尾(えんび)服が飾られている。中国語の看板に混じって、フランス国旗も夜風にひらひらたなびいている。

 大通りの角に、ひときわ派手な黄色のネオンに彩られた高い塔付きの四階建てビル“大世界”が現れた。漢字の電飾が月より明るく夜の街を照らしている。ルイは建物の裏口から、急いで入っていった。

 大世界は、演劇の舞台に、映画館、ダンスホール、食堂などが揃(そろ)った、上海でも指折りの大型複合施設だ。正面から入った客は、吹き抜けの天井を仰ぐ大きなステージに出迎えられる。左右の階段から上階に上がれば、そこでも無限に遊びが楽しめる。

 三階のダンスホール東興楼(ドンシンロ)では、楽隊がスイング風の陽気な曲を奏でているところだった。間久部麗奈が髪を振り乱し、嬌声(きょうせい)を上げ、仲間たちと踊っている。マリアが片隅でその様子を観察している。

 そして一階の天井吹き抜けの舞台のほうでは……いましも京劇の出し物が始まろうとしていた。

 客席の真ん中に豪華な革ソファがある。黒テンの毛皮をまとい、橙(だいだい)色の蝶(ちょう)ネクタイを締めた小柄な中国人の老人が、人の良さそうな笑みで腰かけていた。

 ――黄金栄(ワンジンヨン)。中国混迷の時代を、阿片や賭博、日本軍とのパイプの強さを使って這(は)いあがった、泣く子も黙る青幇(チンパン)のゴッドファーザーである。

 と、化粧をほどこしてきらびやかな衣装を身につけたルイが舞台に飛びだしてきた。客の目が追いつけないほどのスピードで、飾り刀を舞わせ、獣のような跳躍力で上下左右に踊り回る。やがて、高鳴る銅鑼(どら)の音に合わせて決めポーズをしながら、その切れ長の美しい目で、黄金栄にぱちっとウインクしてみせた。

 黄金栄が皺(しわ)を深め、満足げにうなずく。

 そこに、薄水色の男性用中国服に身を包み、細い足首に銀のアンクレットを巻いた、ほっそりした短髪女性が近づいてきた。男っぽい作り声で、「じいじい、今夜もお楽しみかい。おいらの店、東興楼にもあとで顔を出しておくれよな」と声をかける。

 黄金栄はちらりと見て、

「ほぅ、愛新覺羅顯王子(王偏に子)(あいしんかくらけんし)――川島芳子か」

     ◇

 〈あらすじ〉 中国西域の砂漠に潜むという「火の鳥」の調査隊長に任命された關東軍少佐の間久部緑郎。その計画を盗み聞きした弟の正人が共産党のスパイとして憲兵に捕らわれるが、緑郎は疎遠だった弟をかばって解放してやる。しかし、正人は感謝もせず、出世ばかり追い求める兄に反発。緑郎は仕事ぶりを示して尊敬を勝ち取ろうと、正人を調査隊のガイドとして連れて行くことにする。一方、緑郎の身辺をかぎ回る謎の笛吹き娘マリアは、緑郎の妻・麗奈と夜の上海へと繰り出していった。