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 かくなる男装の麗人は、どこか遠くを夢見る、独特の目つきをしていた。小柄なからだから、青い炎のような冷気を発している。

「貴殿は相変わらず、憂鬱(ゆううつ)な美しさじゃな。その退廃はもはや芸術の域じゃ」

「よせやい! 褒めたってなにも出ないぜ」

 と照れてみせる横顔にも、不思議と品があった。

 ――川島芳子こと、滅亡した清の皇族の王女、愛新覺羅顯王子(王偏に子)(あいしんかくらけんし)。数奇な運命で、日本人の養女となったり、モンゴル族の将軍の息子と結婚したりと、人生流転したのち、「清王朝を再興させん」と大陸の戦禍に身を投じた。その目的のため、時には日本軍にも協力する女スパイである。

 芳子は「んじゃ、じいじい。またな」と愛想よく手を振ると、蒲公英(たんぽぽ)色の絨毯(じゅうたん)が敷かれた壁際の階段を、優雅に登っていった。横顔にふっと影が落ちる。「有家不得帰(ユーチアプートーコイ)(家はあれど帰れず)、有涙無処垂(ユーレイウーチューチョイ)(涙はあれど流せず)……」と、老女のようなか細い声でつぶやく。

 三階のダンスホール東興楼に着くと、一転して自信ありげな笑みを作り、店内に入っていく。

 丸くて暗いホールを、赤と紫のシャンデリアが妖しく照らしていた。日本人の客は、兵士に商社マン、職業不明の大陸浪人。肌も露(あら)わな野鶏(ヤーチー)(白系露人の娼婦(しょうふ))たちも混じり、曲に合わせてスイングしている。

 芳子は暗い一角にある革ソファにどっかりと腰を下ろした。辮髪(べんぱつ)の給仕に命じて、阿片(アヘン)を吸い始める。と、麗奈が踊りの輪から飛びだしてきて、ソファの背にひょいと身軽に腰掛けた。

 芳子が気だるげに目を細め、

「おや奥さん。いつもご贔屓(ひいき)にどうも」

「お姉ちゃまもご機嫌麗しゅう!」

 と、顔なじみらしい挨拶(あいさつ)を交わす。

 麗奈が芳子に「今夜の新しいお友達よ」とマリアを紹介した。芳子は興味なげに目を逸(そ)らす。するとマリアは床に腰掛け、静かに笛を吹き始めた。

 妙(たえ)なる音色に、芳子が気持ちよさそうに目を閉じ、

「有家不得帰、有涙無処垂……」

 麗奈が「その詩、お姉ちゃまの口癖ね。でも帰れない家ってなぁに?」と楽しそうに聞く。

「そうさなぁ。日本の養家にも、モンゴル族の婚家にも、おいら、今となっては未練はないのさ。だからさ、きっと清王朝のことだろうね。幼いころ遊んだ紫禁城(北京の王宮)の美しさを、今も夢に見るからね。青いお屋根に銀の舟。その舟は、夕刻の金のお空に浮いてたのさ……」

 とうっとりした口調で言ったかと思うと、一転、怒りの表情に変わり、まくしたてる。

「おいら、満州国の建国を見て、日本の力を借りれば清王朝も復興できると思いこんじゃったのさ。でも満州国は日本の傀儡(かいらい)政権に過ぎないし、清も復興する気配がない。どうやらおいらは關東軍の男たちに騙(だま)され、利用されていたらしい。ようやく気づいたものの、今度は青幇(チンパン)の手に落ち、泥沼から抜けだせず……」

 と阿片のゆらめきを目で追って、

「おいらの煙は、西太后のため息なのさ」

 麗奈が「あら、お姉ちゃまったら。そいつは心得違いだわ」と元気よく身を乗りだした。

「だって、大日本帝国は、アジア全体の平和のために戦ってるんですもの」

 芳子が「なんだい、そりゃ?」と皮肉っぽく聞く。

「ほらっ、イギリスにフランス、それにアメリカ……欧米の大国が、帝国主義を振りかざし、軍事力でもってアジア中を植民地化しようとしてるでしょ。奴(やつ)らと対抗するためには、バラバラじゃダメ。アジアが一丸となって欧米の帝国どもと戦わなければ、たちまち飲みこまれちまうのよ」

「ふぅむ?」

「なのに、頼みの綱の中国は、国力が弱って、内戦ばかり……。だから日本が、アジアを一つにまとめてみんなを守ろうとしてるの。アジアの国々は、安心して日本に任せてよいのよ。鳥就在籠子里等着口畏(口に畏)食口巴(口に巴)(ニォージュラロンズリデンライュザヴァ)(鳥は鳥かごで餌を待て)ってこと!」

「へぇ……? キミ、やけに詳しいじゃないか。さては關東軍少佐の旦那さまの受け売りかい」

 麗奈は「まっ」と頰を赤くした。拗(す)ねたように「夫とはもうほとんど話さないもの。今のはパパから聞いたのよ」と言う。

 芳子が意外そうにし、

「なに、あんな豪勢な披露宴をしたばかりでかい?」

「だって! 夫と出かけた帰り、戯れに占い師に見てもらったら、『六年後どちらかがどちらかを殺す』って言われたのよ!」

 と訴える麗奈の真剣そのものの様子に、芳子がたまらず「そいつはおかしな話だなぁ」と噴きだした。

「お姉ちゃまったら、笑わないで! あたし、お父様が選んだよく知らない殿方と同衾(どうきん)したあげく、殺されるなんてごめんだわと思ったの。ねぇ、あたしの母は、広島の旧家出身で、未来を視(み)る千里眼を持ってたの。早くに亡くなったけども……。あたしに力はないけど、占いをつい信じちゃうのは、そのせいかもしれないわ」

「やれやれ! キミは案外、困ったお人なんだな。おいら、旦那さまに心からご同情申しあげるよ」

 と、芳子が本気の口調で諭し始める。

 そんな彼女たちの会話に、傍(そば)のマリアが、笛を吹きながら、こっそり聞き耳を立てている……。

 

 大世界の塔のいちばん上に、豪奢(ごうしゃ)な小部屋がある。壁に埋めこまれた無数の宝石が銀河のように光っている。

 金と緑の飾りがついた紅木の大きなカウチに、黄金栄が足を広げて腰掛けていた。足元の床には、ルイが置物のようにちょこんと鎮座している。二人の横顔を、天井から下がる花のぼんぼりが薄黄色に照らしていた。

「怪不得(ガーバダ)(なるほど)……。ルイ、では“火の鳥”とやらを關東軍が狙っているのじゃな。作戦名は“ファイアー・バード計画”か」

 と嘯(うそぶ)く黄金栄の顔つきからは、さきほどまでの好々爺(こうこうや)らしさが煙のように消えていた。

「關東軍の目的は兵士の士気高揚、とな。資金源は三田村財閥。……ということは、だ。おそらく“未知のホルモン”こそが、武器売買や阿片取引とは比べ物にならないほどの“金のなる木”なのだ。三田村財閥の真の狙いはそこにあるに違いない」

「口恩(口偏に恩)(ンン)(はい)」

「ルイ、關東軍の調査隊に同行し、調査隊と、スパイしている八路軍兵士の様子を伝えろ。我々は気づかれないようにこっそり後方支援する。そして“火の鳥”が発見され次第、調査隊員も八路軍兵士も一網打尽に血祭りに上げ……」

 にやりと笑い、

「我々が“未知のホルモン”を手に入れるのだ!」

 ルイがうなずく。床に頭と膝(ひざ)をすりつけ、虫が這(は)うような動きで小部屋を出て行く。

 黄金栄はその姿を見送り、満足げにうなずいた。誰にともなく「ふむ、類(たぐ)い稀(まれ)な美貌(びぼう)の富察ル伊(フーツァルイ)……」とつぶやいた。

「東北の寒村から売られてきた、飢えた子供。わしが拾い、命を与えた。だから、息をしなくなる瞬間まで、おまえはわしの犬なのじゃ」

 と言い、茶碗(ちゃわん)をつかんで、ぐいっと茶を飲み干す。

 八角形の小机に茶碗を戻したとき、部下が入ってきて、毛筆で文章が書かれた紙と、麻縄で括(くく)られた札束を差しだした。黄金栄はまず札束を受け取り、笑みを浮かべた。ついで紙にちらりと目を走らせると、

「おい。三階に行き、愛新覺羅顯王子(王偏に子)に命じてこい。新たな任務が入ったとな。明日の朝、虹口(ホンキュウ)(日本租界)の三田村家へ行って、向内(むこうち)の指示を受けろ、任務内容はわしは知らん、と」

 部下が「はい」と下がる。

 一人になると、黄金栄はカウチにゆったりと寝転んだ。両手で札束を弄(もてあそ)びながら、

写真・図版

「あの川島芳子も、ルイと同じく、わしの犬だ。黒社会に借金をこさえたところを、青幇が助け、大世界に店まで出させてやったのだから。清の皇女とて、骨になるまで、わしの命令を聞かねばならん。あぁ、愉快(ユークァー)愉快!」

     ◇

 〈あらすじ〉 關東軍少佐の間久部緑郎を隊長として、中国大陸西域へ「火の鳥」調査隊が送られることに。緑郎からガイドに雇われた弟の正人は中国共産党の抗日運動に身を投じており、兄を裏切ることに迷いつつ、京劇役者のルイとともに調査隊をスパイすると決めたのだった。一方、ルイが舞台に上る「大世界」には、緑郎の妻・麗奈や笛吹き娘のマリアの姿もあった。この大歓楽施設を支配する上海マフィアのボス・黄金栄のもとに、「東洋のマタ・ハリ」と呼ばれた川島芳子が現れる。

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