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 「居眠りは日本人の文化」などと言われます。来日した外国人が、電車の中で寝ている日本人の多さに驚くそうです。それだけ治安がよいとも言えますが、普段の睡眠時間が短いことも特徴のようです。不眠に悩む人も多く、今度の10連休も睡眠リズムの乱れに要注意。みなさん、最近ちゃんと眠れていますか?

中退・休職…不眠症20年

 千葉県に住む土井貴仁さん(29)は、20年余のつらく長い不眠人生を送ってきました。幼稚園のお泊まり会で、自分一人だけ起きていました。小学校は何とか乗り切りましたが、中学校では不眠症から不登校に。「布団に入って寝つくまで3~4時間もかかった」と振り返ります。朝まで一睡もできずに登校することもありました。

 心の支えは祖母でした。「学校に行けない自分のことを認めてくれました」。その祖母が亡くなったのが中学3年の時。「元気になって学校へ行く姿が見たい」と望んでいました。「がんばろう」と心を奮い立たせて再び登校し、高校に進んだのですが限界でした。中退して自分で勉強し、高校卒業程度認定試験に合格しました。

 最初の大学受験は試験中に寝てしまい、ほとんど真っ白の解答用紙を出しました。「これ以上、失敗を重ねられない」と、通院して睡眠薬を服用し、翌年は合格。自由に時間を使える大学時代は、不眠症を忘れたように過ごせました。「でも、卒業して働き出すと、きちんと不眠症を治さなかったツケが回ってきました」。就職した教育系企業を3カ月で休職しました。

 今度こそしっかり不眠症を治そうと、土井さんは決意しました。東京都内の専門病院に当時自宅があった京都から通院しました。担当医から心理面での原因が大きい不眠症と診断されました。

 この専門病院が取り組んでいたのが、認知行動療法による不眠の治療です。担当したのは、現在は東京家政大准教授の公認心理師、岡島義さん(39)。最初のカウンセリングで、岡島さんは1時間をかけて、土井さんの不眠の経緯や症状、治療経緯や苦労を詳しく聞き出し、回復へ導く方針を立てました。

 認知行動療法とは、患者の考え方(認知)や、行動の仕方のくせやゆがみを見つけ出し、是正することで症状を改善させる方法です。不眠症では「睡眠日誌を付ける」「眠れない習慣的な条件を取り除く」「筋肉の緊張を解く」など、様々な方法を組み合わせます。「乱れた睡眠リズムを取り戻し、生活を立て直します」と岡島さんは説明します。

 治療を始めて半年で土井さんの症状はほぼ治まり、1年後には睡眠薬もやめられました。今、土井さんは自分の経験を生かして起業し、睡眠に悩む人の支援事業を始めました。

経済損失15.4兆円 事故も招く

 人は一生の3分の1を寝て過ごします。大阪ガスの統括産業医で、厚生労働省職場のメンタルヘルス対策検討委員会委員を務めた内科医の岡田邦夫さん(67)は「睡眠不足による損失は大きい。大事故にもつながります」と警告します。

 1986年1月に起きた、米航空宇宙局(NASA)のスペースシャトル、チャレンジャー号の爆発事故は有名です。打ち上げ当日の気温の低さを問題視するエンジニアの警告があったのに、長時間労働で睡眠不足に陥っていた責任者が、適切な中止判断を下せなかったとされます。責任者2人は3時間の睡眠後、23時間不眠の状態でした。打ち上げを続行し、乗組員7人が死亡しました。

 89年3月にアラスカ沖で起きたエクソンの原油タンカー、バルディーズ号の座礁も、航海士らの睡眠不足が指摘されています。大量の原油が海へ流れ、環境を汚染しました。

 人は誰でも、睡眠が不十分だと適切な判断を下せません。岡田さんは「睡眠不足による日本全体の経済的損失は1380億ドル(15兆4千億円)に達するとの米シンクタンク『ランド研究所』のデータもあります」といいます。

 そんな大切な睡眠の時間が短いのが日本人です。経済協力開発機構(OECD)がまとめた睡眠時間の国際比較で日本は最下位。中国9.0時間、米国8.8時間、英国やフランスは8.5時間なのに対し、日本は7.4時間です。このデータについては、調査方法の不統一などの問題点も指摘されていました。しかし最近、腕時計型の心拍計を販売するIT機器メーカーが世界中の顧客データを分析した結果でも、日本人の睡眠時間は最下位でした。もはや「眠らない日本人」は、疑いようのない事実です。

 内村直尚・久留米大医学部教授は「免疫力を高めるのも睡眠。疲労回復や記憶の固定にも睡眠が欠かせません。寝不足は脳と身体に深刻な悪影響をもたらします」と話します。

 内村教授によると、4時間睡眠が6日間続くと1晩徹夜したのと同じレベルまで注意力が低下するといいます。これは「酒気帯び運転」と判定される飲酒量による注意力低下をはるかに超えるそうです。

 休日の朝寝坊もよくありません。「朝の光を浴びる時間が遅れると体内リズムが乱れます。朝寝坊は2時間以内にとどめるべきです」と内村教授。それ以上の朝寝坊は、睡眠のリズムを調整しているメラトニンというホルモンの分泌が遅れ、分泌量も減るため夜の寝付きが悪くなるといいます。

 内村教授が危惧するのが、4月下旬からの10連休です。睡眠のリズムが乱れ、体調を崩す日本人が増える心配があるそうです。「今年は五月病が増えるのではないでしょうか」

 睡眠不足には、こうした生活習慣や睡眠環境が原因となる以外に、身体的な疾患やうつ病によるものなど、様々なタイプがあります。医師の診断に基づいた適切な治療を受けることが大切です。

仕組みや働き 近年解明

 睡眠障害の治療ガイドラインをまとめた厚生労働省研究班代表で、日本睡眠学会理事長を務める内山真・日本大教授は「睡眠がどのように制御されているかがわかってきたのは最近のことです」といいます。

 かつては睡眠とは「覚醒レベルが低下するために起きる」と、受動的なものと理解されていました。しかし研究が進み、睡眠とは生命維持のための能動的な働きであることが明らかになってきました。

 深い睡眠の間にさまざまなホルモンが分泌されて身体の状態が整えられ、体温や血圧、脈拍、免疫、代謝などが体内時計によって調整されているのです。

 「こうした睡眠研究に、日本が大きく寄与してきました」と内山教授。今世界の第一線にいるのが、柳沢正史・筑波大教授(58)と、上田泰己・東京大教授(43)です。

 柳沢教授は1998年、睡眠覚醒を制御する神経伝達物質「オレキシン」をラットの脳内で発見。睡眠障害「ナルコレプシー」の原因がオレキシンの欠乏によるものであることを解明しました。研究成果は、依存性や副作用が少ない睡眠薬の開発にもつながっています。

 上田教授は、多くの生物が持っている「概日時計(がいじつどけい)」と呼ばれる体内時計の仕組みの解明に取り組んできました。人が朝になると目覚めて夜に眠るのは、この概日時計がほぼ1日の周期を持っているからです。上田教授はマウスや人間の細胞から、体内時計を構成する遺伝子ネットワークを突き止めました。

 睡眠学に関する最先端の研究機関としては、米スタンフォード大学が知られます。同大学の睡眠生体リズム研究所で所長を務めるのが、西野精治教授です。2年前には一般向けの解説書「スタンフォード式 最高の睡眠」がベストセラーに。この著書で解説された、寝不足がまるで借金のように積み重なって返済不能になる恐ろしさを表す「睡眠負債」というキーワードは流行語にもなりました。

仮眠スペース 新ビジネスに

 日本の睡眠不足問題は、新しいビジネスも生み出しています。3月6日、東京都品川区のJR大井町駅近くに「睡眠カフェ」がオープンしました。日中に理想的な仮眠が取れる専用スペースとして、食品会社のネスレ日本が運営しています。

 高級ベッド6台と高機能の革製リクライニングチェア4台があり、マットレスや枕の硬さを選べます。照明の色や明るさも調整でき、睡眠の質を計測できるというアイマスクも準備しています。短い仮眠を取れる30分間の「ナップコース」と、1~3時間から希望の時間を選べる「睡眠コース」があり、料金は利用時間に合わせて810~5346円。事前予約が基本で、人気のある正午~午後2時前後の時間帯は満室になることもしばしばだそうです。

 ネスレ日本の運営ということもあり、コーヒーも出ます。1時間以上の睡眠コースなら「カフェイン無し」で、30分の仮眠なら「カフェイン入り」です。「カフェイン入りのコーヒーを仮眠前に飲めば、ちょうど目覚める頃に効果が出て、シャキッとできます」と担当者。

 同社の石橋昌文・専務執行役員は「欧州各国と比べて少ない日本の睡眠時間が注目されています。睡眠不足の人が多く、何かできないかとアプローチしました」と述べました。

 社員の睡眠不足に会社をあげて取り組む企業もあります。JR東海では、乗務員が運転中に覚醒度をきちんと保てるように、「睡眠自己管理プログラム」という仕組みを導入しています。乗務員が就寝時刻や起床時刻、眠気や疲労の感覚などを自分でパソコンに入力し、睡眠時間の履歴や睡眠状態をチェックします。必要な睡眠時間を確保するためのアドバイスなども表示されます。

 「鉄道の乗務員は勤務が不規則で寝不足になりやすい。運転室では長時間、同じ姿勢でいるため眠気にも誘われがちです」と同社総合技術本部の清水紀宏担当部長は話します。このプログラムを活用したところ、社員から「眠気が減った」といった声が寄せられたそうです。

 取り組みのポイントは、「自己管理」。社員が自主的に睡眠管理を意識することで、職場全体の安全意識が高まるといいます。「組織としての地道な取り組みと、各人の意識の両方が、睡眠不足問題の解決には必要だ」と清水さんは話しています。

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 睡眠は確かにとても重要。でも取材を通じて実感したのは、むしろ睡眠時間にこだわりすぎず、柔軟に考えることの大切さです。専門医らによる「治療ガイドライン」にも、「睡眠は人それぞれで、4時間で十分な人もいれば、10時間必要な人もいます」と記されています。

 内山真・日本大教授はいいます。「多くの人が夜も起きているようになったのは、産業革命より後のこと」。人間はまだ、夜の過ごし方に慣れていないのです。

 考えてみれば、農耕文明が生まれる以前に狩猟生活を送っていた人類は、小集団で暮らしながら外敵から身を守って暮らしていたはず。夜に眠るときも、「寝付きの悪い人」や「夜中に目覚める人」が交ざっている方が、絶えず周囲を警戒できて集団の安全度が高まったはずです。

 「睡眠は人それぞれ」とは、まさに人類が生き延びる知恵だったのかもしれません。そう考えると、眠れぬ夜もちょっと気が楽になりませんか。健康な人の睡眠時間も45歳で平均6.5時間と、意外と短いでしょ?(伊藤隆太郎)

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