平成と天皇 前侍従長、川島裕さん(76)

 東日本大震災があった3月11日。揺れが始まった午後2時46分に黙禱(もくとう)を捧げるのには実は抵抗があるのです。あの時間、犠牲になった多くの方々はまだ生きていた。あの日、皇居・宮殿で、激しい揺れの直後から天皇陛下のおそばでテレビを見ていました。津波警報が表示され、次いで画面に、津波が来る前に沖合に脱出しようとする漁船が映し出されました。陛下は、1993(平成5)年の北海道南西沖地震での知見から「沖合まで出られれば大丈夫」と祈るように述べておられた。あの十数分は一生忘れないと思います。

 実は震災に先立ち、陛下には心臓に異常が見つかっており、バイパス手術も検討されていました。急を要する程ではなかったため手術の実施は見合わせていましたが、ご体調は必ずしも万全とは言えなかったかもしれません。それでも7週連続で被災者の元を訪ねられた。その後も多くの災害の地に足を運ばれた。2014年の広島の土砂災害被災地訪問の際、肉親を亡くし、硬い表情で待っていた人々が、両陛下と話をしだした途端、すーっと表情が和らいだ。こうしたやりとりの膨大な積み重ねが、象徴の意味合いを形作っていくのだと実感しました。

 両陛下は、犠牲の大きさを「統計数字」とは見ておられない。一人ひとりの悲しみを、リアリティーを持って受け止めておられる。それは、戦没者についても同じでした。両陛下は戦後70年にあたる15年4月、激戦地となったパラオ共和国のペリリュー島に赴かれた。それに先立ち、生還したかつての日本兵2人と御所で懇談された。陛下は風邪のため途中退出され、皇后さまが最後までお話を聞き、陛下に伝える役目を担われた。懇談後、御所の長い廊下を帰って行く2人の背中をいつまでも見送られていた。これは異例なこと。あれも一人ひとりに思いを寄せてこられたことの証しだと受け止めました。

 平成を振り返り、長い天皇の歴史の中で、国民との一体感がこれほど生まれた時代は初めてだろうと思いました。ここまで多くの機会に、国民に向かってお気持ちを率直に伝えてこられたのは今の両陛下が初めてではないかとも思います。退かれた後は、皇后さまと共に、健やかに人生をエンジョイしていただきたい。(聞き手 中田絢子

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 かわしま・ゆたか 1942年生まれ。東大法学部を経て外務省に入省。韓国公使、イスラエル大使、外務事務次官などを歴任。2003年に皇室の儀式や外国交際を統括する宮内庁式部官長。07年から15年まで、天皇、皇后両陛下の側近トップである侍従長を務めた。