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 衆院沖縄3区補選が9日、告示された。選挙区の沖縄本島中北部は、キャンプ・シュワブ(名護市)など米軍基地が特に集中する地域で、選挙や住民投票のたびに「基地」が問われ続けてきた。2月の県民投票に続いて再び「辺野古」が争点となる今回、有権者は1票に何を託すのか。

 名護市辺野古の埋め立ての是非を問う県民投票では、反対に「○」をつけた。その後も米軍普天間飛行場(宜野湾市)の移設工事は止まらない。名護市の飲食店員女性(24)の心は曇る。「いくら選挙をしても(工事は)止まらないのかな」「だからといって、あきらめるわけじゃない」

 おばあちゃん子だった。いまも入院中の祖母の元に通い、食事をともにする。その祖母の肩には、沖縄戦の時に受けた弾の破片が入っている。弟を背負って戦場を逃げ惑ったという体験を、子どもの頃から聞いてきた。「平和のためには基地は要らない」と思ってきた。

 3年前、「基地のある沖縄」を身近で感じた。妹の友人であるうるま市の20歳の女性が行方不明に。同じ名護出身で、妹の送り迎えで一緒に車に乗せたことがあった。優しくて、礼儀正しい子。だが3週間ほどして、無残な姿で見つかった。逮捕されたのは、元米海兵隊員の軍属だった。

 事件が起きた4月28日が近づくと、当時のことを思い起こす。妹は事件後に結婚した。亡くなった女性も事件がなければ、幸せに暮らしていたのだろう。米軍関係者の全員が悪いわけではないと思うが、やはりこれ以上、基地はない方がいい。

 名護市長選、市議選、知事選、県民投票……。この1年余り「辺野古移設反対」の思いで投票してきた。投票所にはいつも4歳の息子を連れて行く。その1票は、わが子の将来のためでもあるから。少しでも何か変われば。今回も必ず投票するつもりでいる。

 うるま市の久高(くだか)政治さん(70)は、県民投票で請求代表者を務めた1人。「すぐに結果が出なくても、声を上げ続けるしかない」と「反対」に投じた。固い意思には理由がある。

 小学5年生だった1959年6月、通っていた小学校の校舎に突然、墜落した米軍機が飛び込んできた。児童や住民ら17人が死亡し、200人以上が重軽傷を負った宮森小墜落事故。理不尽な現実を、身をもって知った。基地と隣り合わせの生活を強いられる状況をいつか変えたいと、事故を語り継ぐNPO法人で活動してきた。

 沖縄には今も基地が集中し、うるま市にも米海兵隊の海外唯一の遠征軍司令部や、米海軍の港湾施設などが置かれている。県民投票では「反対」が7割以上を占めたが、政府は工事を止めず、3月には新たな区域への土砂投入も始まった。「無力感にさいなまれる」

 でも、ダメだからあきらめる、という訳にはいかない。母校に立つ慰霊碑には、犠牲になった子どもたちの名が刻まれている。「不正義にはあらがい続けるしかない」。今回も、変わらない願いを1票に込めようと思う。

 米軍嘉手納基地を抱える沖縄市。中心部のアーケード街は、空き店舗が目立つ。一角でライブハウスを営む宮永英一さん(67)は「基地問題ばかりではなく、現実的に街の活性化を示せる人を選びたい」と話す。

 思い描くのは、米兵であふれた1960~70年代、街が「コザ」と呼ばれた当時だ。米兵相手のロックバンドを組み、1日5、6回の演奏を毎日続けた。「貧しい沖縄を立て直したのはコザだという自負がある。平和であれば基地はない方がいいに決まっているが、現実を受け入れて生活し、成長してきた」

 しかしベトナム戦争後はみるみる客が減った。米兵による事件事故が起きるたびに外出禁止令などが出る影響で、コザの店は相次ぎ閉店した。宮永さんは「音楽の街」を再興しようと、約20年前に沖縄県ロック協会を立ち上げ、行政とともに街の活性化を目指した。市も国の補助金で複合施設「ミュージックタウン音市場」を建設。期待通りに人は集まっていないが、コザの音楽の歴史を伝える活動を続けていきたい。

 2月の県民投票には意味を感じず、投票所に行かなかった。「俺にとっては、後世に残す街づくりが最も重要。米兵は敵ではない」と話した。(岡田将平、山下龍一、伊藤和行)