日本が育てたネパール野球、20年の節目 五輪に初挑戦

辻健治
[PR]

 南アジアの内陸国、ネパールで野球が行われるようになって、今年で20年を迎える。現地で普及に力を注いできたのは大阪の学生たちだった。震災などの困難を乗り越えながら着実に成長を続け、この夏、初めて五輪の予選に挑む。

 ネパールの野球の歴史は、大阪市城東区を拠点とするNPO法人「ネパール野球ラリグラスの会」が中心となって紡がれてきた。1999年、プール学院大(現桃山学院教育大=堺市南区)の学生が日本語教育の研修で訪れたことがきっかけとなった。学生らが息抜きにキャッチボールをすると、現地の人たちが珍しそうに見つめた。野球が知られていないことがわかり、学生たちは同年9月に会を結成。名前には、ネパールの国花で、真っ赤な花を咲かせるシャクナゲの一種の名を冠した。以降、日本から指導者を派遣したり、道具を送ったりする支援を現在まで続けてきている。

 理事長の小林洋平さん(38)も大学1年の2001年から活動に加わった。基本動作やルール、野球の楽しさを伝えることから始まり、10年にはイッソー・タパ選手(30)が関西独立リーグへ入団してネパール人初のプロ野球選手となった。「日本の野球を体感した選手が出たことで、さらに高いレベルでプレーしたいという声が多くなった」と小林さんは振り返る。

 15年4月、ネパール大地震が起き9千人近い死者が出た。翌月に小林さんたちが救援物資を手に、野球関係者のつてを頼って現地を訪れると、被災しながらもキャッチボールをしている子どもたちを目にした。「野球をしていると、つらいことが忘れられる」。少年たちはそう口にして白球を追っていたという。震災があってもネパールで球音は途絶えず、復興支援の野球大会も開かれた。

 現在の競技人口は約500人。国内では成人の6チームで大会が開かれ、中には軍や警察も名を連ねる。昨夏にはラリグラスの会と現地の協会などが協力し、首都カトマンズの近郊にある学校の施設として、グラウンドをつくった。内野には赤土を入れ、投手用の防球ネットも備えた。

 7月にスリランカで開催予定の西アジアカップにはネパールを含む6カ国が参加する。20年東京五輪の1次予選に位置づけられている。9日からは代表選手の選考を兼ねた国内大会が始まった。現状では、西アジアで上位に食い込めるかどうかの戦力だという。

 会が活動を続けてきた間に日本とネパールを取り巻く環境も変わった。法務省によると、日本で暮らすネパール人は昨年末現在約8万8千人で、13年末と比べて約5万7千人増えた。「ラリグラスの会のおかげでプロになれた」というタパ選手は五輪予選に向けて、「ネパールの野球のレベルを上げる大きなチャンス。日本で暮らすネパール人も増えてきたので、ネパールの野球をもっと知ってもらいたい」。13年にネパール代表監督を務め、現在は協会のアドバイザーとなった小林さんは「活動の集大成となる大会にしたい」と話している。

 「20年という節目を迎え、ネパールの野球も『自立』する時期にある」と小林さん。今後はタパ選手ら現地の人たちに、普及や強化の中心的な役割を担ってもらう計画だ。「次の10年間で、ネパール人がネパール人のための野球をつくってもらいたい」という。(辻健治)

有料会員になると会員限定の有料記事もお読みいただけます。

今すぐ登録(1カ月間無料)ログインする

※無料期間中に解約した場合、料金はかかりません