神戸が焼け野原となった大空襲から今年で74年。芦屋市の写真家・中山岩太(1895~1949)が撮った空襲直後の写真が今に残っている。これはどこで撮られた写真で、フレームの外にはどんな光景があったのだろうか。それを知りたくて、街を歩いた。

神戸空襲とは
米軍による神戸市域への無差別爆撃は1945年2月に始まり、3月17日未明の大空襲で市の西半分が壊滅。5月11日の大空襲で灘区や東灘区が大きな被害を受け、さらに6月5日の大空襲で市の東半分も焦土化。市史によると7491人が亡くなった。

 「ああ、これは三宮神社の前、大丸の角ですね」

 拍子抜けするほどあっさり答えが出た。差し出した1枚を見て説明してくれたのは、西阪順三さん(86)=神戸市兵庫区=。「当時を知る人を探している」と市民団体「神戸空襲を記録する会」に相談し、紹介してもらった空襲体験者だ。

 戦時中は、現在の阪急神戸三宮駅の北側に、両親と姉2人の5人で暮らしていた。大丸神戸店があり、休日には大勢でにぎわう三宮神社周辺は、子ども時代の西阪さんの遊び場だった。鳥居の奥あたりには当時映画館があり、こっそり忍び込んだことも。「大人に見つかってトイレの窓から逃げたのもいい思い出です」

朝食後、鳴り響いた空襲警報

 そんな平和な日常を戦争が引き裂いた。1945年6月5日朝。西阪さんは、当時中学1年生。朝食を済ませて2階で勉強していると、空襲警報が鳴った。3月の大空襲では無事だったので、「きっと今回も……」と思っていたら、近くのビルに焼夷弾(しょういだん)が落ちた。

 あわてて1階に駆け下りると、家にも焼夷弾が降ってきた。父親は自転車で職場に、母親は「はよ逃げなさい」の言葉を残して姉2人とともに家を出た。西阪さんは布団で家の中の火を消しとめ、後を追った。

 焼夷弾が降る「ザー」という音が夕立のようだった。あたりは煙と炎に覆われ、逃げ道がわからない。

 「そっちに行っちゃだめだ!」。戸惑う西阪さんに、警防団の服を着たおじさんが声をかけてきた。おじさんは西阪さんの右手をとって一緒に逃げ出した。しかしその直後、おじさんの手からふっと力が抜けた。頭に焼夷弾が直撃していた。「おじさん!」と何度も叫んだが、倒れたおじさんは動かなかった。

 おじさんの血を全身に浴びた姿で逃げ惑ううちに警察に保護され、父親とは落ち合えた。しかし、先に逃げたはずの母親と姉2人の行方はわからなかった。

母や姉たちの行方を探して

 約1カ月後、姉の1人がようやく見つかった。生田神社の東側あたり。手に持っていた財布の中のはんこと、おなかの下で抱きしめていた弁当箱から警察が「身内の人では」と教えてくれた。14歳だった。姉の頭を父親が、西阪さんが足を持って自宅まで連れ帰った。父親と二人で木片をかき集め、荼毘(だび)に付した。母親ともう1人の姉はその後も見つからなかった。

 西阪さんは、現在の兵庫県たつの市の叔母宅に身を寄せた。8月初めの夜、叔母は夢を見た。叔母がふと玄関に出ると、西阪さんの母親が立っていて、「順三をよろしく」と言ったという。それを聞き、西阪さんはこらえきれず号泣した。

 敗戦を知らされたのはその数日後だった。それまで日常的に「日本には神風が吹く」「絶対負けない」と繰り返し教わっていた。あれは一体何だったのか。

 「信じられないでしょう? けれど、これが戦争の現実なんです」。西阪さんは静かに語った。「『戦争反対』なんて口ではなんぼでも言える。でも、やっぱり実際の戦争に苦しめられた人間が言わないと……」

 平成は戦争のない時代として過ぎた。昭和の戦争を経験した人が多く健在だったことも大きいだろう。

 では、これからは――。

 西阪さんは「もちろん、平和が引き継がれることが願いですよ」とひときわ言葉に力を込めた。74年前は焦土だった大丸前。西阪さんの声と、楽しげに談笑しながら近くを通り過ぎる高校生たちの明るい声が、一瞬交差して耳に響いた。(大木理恵子)

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 〈神戸空襲〉 米軍による神戸市域への無差別爆撃は1945年2月に始まり、3月17日未明の大空襲で市の西半分が壊滅。5月11日の大空襲で灘区や東灘区が大きな被害を受け、さらに6月5日の大空襲で市の東半分も焦土化。市史によると7491人が亡くなった。

写真300枚、特集ページで

 神戸空襲を始め、朝日新聞社が保管する写真300枚を紹介する朝日新聞デジタルの特集ページ「空襲1945」(http://t.asahi.com/v8cm別ウインドウで開きます)が公開中です。