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釜崎照子さん(1938年生まれ)

 4月4日。福岡市東区の釜崎照子(かまさきてるこ)さん(80)の自宅に福岡県の生活協同組合(エフコープ)の組合員らが集まった。釜崎さんの被爆体験を聞くためだ。この日は大学生も同席して、あの日の話に耳を傾けた。

 釜崎さんは7歳のとき、爆心地から約4・1キロ離れた長崎市高平町で被爆した。終戦まで、薄暗い防空壕(ごう)で過ごしたという。戦後は、戦時中以上に食料不足に苦しみ、米兵にお菓子をせがんだこともあった。

 釜崎さんの話を聞いた九州工業大学4年の高山直人さん(21)は「小中学校では修学旅行などで被爆者の話を聞く機会があったが、高校や大学では話を聞く機会がない。話を聞かなければ、原爆のことを忘れてしまう怖さを感じた」と話した。

 「若い人が被爆体験を聞いてくれて、ありがたい。この人たちが頑張らないといけない」

 エフコープの聞き書き活動に初めて協力した釜崎さんはそう考えている。

 釜崎さんは被爆当時、両親と祖母、妹の5人家族だった。鼈甲(べっこう)職人だった父親の藤田日吉さんは、釜崎さんが生まれる前から戦地に行っていた。戦地がどこだったのかは分からないが、日吉さんが中国の話をしていたので、その周辺だったのではないかと思っている。釜崎さんが4歳の時、日吉さんが戦地から戻ってきたが、なかなか「父ちゃん」と呼べなかったのを覚えている。

 原爆が落とされた日、日吉さんは軍の仕事で外出していた。母親のシヅ子さんは防空壕の穴を掘る当番だったため、自宅近くの高台にいた。小島国民学校1年だった釜崎さんは夏休み中で、祖母と妹と自宅にいた。

 伯母がふかした芋を居間で食べようとした瞬間だった。バシーッと強い光の後に、ドーンと音が響いた。気がつくと、体が仰向けになっていた。すぐそばに爆弾が落ちたと思った。「もう死ぬ!」。起き上がれなかった。

 一緒にいた妹は居間の隅に吹き…

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