[PR]

 30年前、中国で民主化を求めた学生らを軍が武力で抑え込んだ天安門事件が起きた。中国が大国の地位を強める今も、事件は政権と市民、そして世界に重い問いを投げかけ続けている。あの時、何が起きたのか。関わった人々は中国の今と未来をどう見つめるのか。

 1989年4月15日。学生らの民主化に理解を示して2年前に失脚していた中国共産党の改革派指導者、胡耀邦の突然の死が、事件の幕開けだった。ハンガリーなど東欧の社会主義国では前年から、民主化の動きが続いていた。

 北京では北京大、清華大の学生らが天安門広場に集まり、胡をしのんで自発的に追悼デモを始めた。胡の名誉回復や報道の自由など7項目を要求。一部の学生らが座り込みを始め、民主化を求める運動は全国各地に広がっていった。

 胡の追悼集会が人民大会堂で開かれた22日には、約20万人が広場を埋め尽くしたとされる。集会が終わっても学生らの民主化要求は収まらず、危機感を強めた党指導部は運動を抑えにかかった。

 当時の最高実力者は、中央軍事委員会主席として軍の実権を握っていたトウ小平。26日、人民日報の社説は学生らの運動を「動乱」と断じ、「共産党の指導と社会主義制度を否定するものだ」と非難した。

 しかし、強硬策は裏目に出る。中国人民大学の大学院生として運動に参加した作家の江棋生(70)は「学生に政権を倒そうという気はなく、党が問題を改め、政治改革を進めてほしいというのが願いだった」。社説に反発した学生たちは団結を強め、27日のデモは10万人規模にふくらんだ。

 5月15日にはソ連共産党書記長のゴルバチョフの訪中が予定されていた。長く続いた中ソ対立を終わらせる30年ぶりのソ連トップの訪問。西側から多くの記者が集まるため、指導部はその前にデモを収束させたいと焦りを強めた。

 だが、学生たちにとっては逆に国際社会にアピールする絶好の機会だった。13日、約2千人の学生が広場でハンガーストライキを開始。命がけの抗議に同情した市民らは声援を送った。

 デモが市民を巻き込んで拡大する半面、学生たちの間では穏健派と徹底抗戦派での意見の食い違いも深まっていった。知識人らが仲介し、学生側と党や政府関係者との対話が何度か試みられたが、いずれも物別れに終わった。

「誰彼構わずに発砲」

 17日のデモは100万人規模に達し、政府機関や工場、交通機関もストップ。トウ小平を名指しで批判する主張も出始めた。18日には総書記の趙紫陽や首相の李鵬らがハンストで倒れた学生らを病院に見舞い、対話の姿勢を見せたが、事態は好転しなかった。政府は20日、北京に戒厳令を発布。学生に同情的だった総書記の趙紫陽は反対し、失脚した。

 部隊と市民のにらみ合いが続いた。「人民解放軍は人民に銃を向けない」との楽観論もあったが、6月3日夜、ついに軍が実力行使に出た。

 「恐ろしいことが起きた。血の…

有料会員限定記事こちらは有料会員限定記事です。有料会員になると続きをお読みいただけます。

有料会員限定記事こちらは有料会員限定記事です。有料会員になると続きをお読みいただけます。

有料会員限定記事こちらは有料会員限定記事です。有料会員になると続きをお読みいただけます。

有料会員限定記事こちらは有料会員限定記事です。有料会員になると続きをお読みいただけます。

980円で月300本まで有料記事を読めるお得なシンプルコースのお申し込みはこちら