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永田良幸さん(1933年生まれ)

 長崎市中新町に住む永田良幸(ながたよしゆき)さん(86)は、週のほとんどをデイサービスに通う。足の自由がきかなくなってきたが、家は急な坂に立ち、送迎の車も入れない。広い通りまでは行き帰りとも、一緒に暮らす原田登美子(はらだとみこ)さん(80)に付き添ってもらう毎日だ。

 「みんなが自分を認めてくれて、楽しい」と永田さん。デイサービスではカラオケが楽しみだ。「無法松の一生」をよく歌う。たまに歌うのが、母つきのさんが好きだった「月の沙漠(さばく)」だ。「母ちゃんの名前も『つきの』だからね」。永田さんは、そういたずらっぽく言ってみせたそばから泣き崩れた。

 原爆で、母ときょうだいの計4人を亡くした。とりわけ母との別れは、悔恨を伴うつらい思い出として残った。昨夏、国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館の被爆体験の聞き取りに応じた。自分が見たことを後世に残したい思いの一心だった。年々、物忘れも進むが、あのときの出来事はよどみなくよみがえる。「悔しい思いをしたから、忘れはしない」

 永田さんは1945年8月当時、長崎市竹ノ久保町(現・梁川町)にあった淵国民学校高等科の1年生で、12歳だった。自宅は城山1丁目にあり、出征した兄2人を除き、両親ときょうだい8人で暮らしていた。

 「学徒報国隊」として、防空壕(ごう)を掘る作業や農家の手伝いに行く毎日だった。防空壕を掘る際、米軍機が機銃掃射してくることもあった。「みんな山に逃げたけど、逃げ場がなくて怖い思いをしたこともあった」。それでも子どもとしての日常はあった。友達と畑で相撲をとり、麦わらで草履作りをした。

 8月8日は空襲警報が解除されず、夜は自宅近くの防空壕で過ごした。翌9日朝、自宅に戻った。学校に向かう友達が迎えに来た。「いま行かれんけん」。永田さんは2階で3歳のいとこをおんぶして子守中だった。庭では母が洗濯し、妹久美子(くみこ)さんが遊んでいた。「学校行くけん、子どもば引き取ってよ、はよう」。母にそう言った矢先、光に包まれた。爆心地からわずか500メートルだった。

 光とともに「ぐわーっという不思議な音を聞いた」。自宅裏は石垣で、家はそこにたたきつけられるような形となって崩れた。気がつくと、家の下敷きになっていた。

 何とかはい出した。左手にやけ…

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