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伊江和夫さん(1928年生まれ)

 マグロ漁船「第五福竜丸」が米国の水爆実験で被曝(ひばく)したビキニ事件から65年になった2019年3月1日。那覇市で集会が開かれた。広島で被爆した女性の証言映像を上映し、長崎の被爆2世の男性が講演。那覇市に住む伊江和夫(いえかずお)さん(90)もあいさつに立った。米国の小型核弾頭の開発方針や、日本政府の核兵器禁止条約への不参加を挙げて「残念」と訴えた。

 伊江さんは集会を主催した団体の一つ、被爆者団体「沖縄県原爆被爆者協議会」の理事長だ。脳裏に刻まれているのは、16歳の時に長崎で目の当たりにした惨状。故郷の沖縄が地上戦に巻き込まれる中、三菱長崎造船所の養成工として働き、被爆した。だからこそ、核廃絶への願いを抱き続ける。

 沖縄県内には長崎と広島合わせて132人(3月末現在)の被爆者がいる。戦後74年を迎え、被爆者の高齢化も進む。伊江さんは協議会の行く末も心配している。

 長崎での体験、そして沖縄での半生を振り返ってくれた。

 伊江さんの故郷は沖縄本島南部の漁師町、糸満町(現・糸満市)。幼い頃は戦争ごっこをしたり、川で魚釣りをしたりして遊んだ思い出がある。ウナギやエビもとれた。歩いたらすぐ海で、潮干狩りもできた。

 長崎に行くきっかけは、現在の中学2年にあたる国民学校高等科2年のことだ。三菱長崎造船所の養成工の募集が学校に来た。

 一つ上の兄は大阪の紡績工場に働きに行っていたし、伊江さん自身も近くの地域の製糖工場を見学したことがあり、工場で働くことに魅力を感じていた。「地元に残っても仕事はない」と思い、長崎行きを決意した。

 その2年前、尋常高等小学校6年の時には旧制中学への進学を教師から勧められたことがあった。沖縄では、旧制中学などに通っていた伊江さんと同年代の生徒たちの多くが「学徒隊」として地上戦に動員され、命を落とした。伊江さんは行った先の長崎で被爆したが、「沖縄に残っていたら、死んどったかもしれん」とも思っている。

 1943年4月、伊江さんは三…

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