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 米軍機による福岡市中心部への爆撃で1千人を超す人が犠牲になった福岡大空襲から19日で74年。空襲体験者に大空襲から8日後に撮影された写真を見てもらいながら、当時の体験を語ってもらった。

 「火の粉が降りかかってくるなか、この橋を走って逃げた」。福岡市博多区の奈良屋地区に住んでいた吉川鉄義さん(82)が写真を指さしながら、あの日を振り返った。

 1945年6月19日夜、8歳だった吉川さんは、ラジオの空襲警報で目を覚ました。普段通り家の下の防空壕(ごう)に向かったが、虫の知らせか、養母は「入ったらいかん」といい、吉川さんの手を引いた。火の手が迫り、風に舞う火の粉を払いのけながら橋を渡った。「焼夷(しょうい)弾がどこに落ちるかわからなくて、怖かった」

死者・不明者、1千人超す

【動くパノラマ】6月19日の大空襲で焦土と化した福岡市。中央は奈良屋国民学校=1945年6月27日

 福岡大空襲では、死者902人、負傷者1078人、行方不明者244人が出たとされる。奈良屋地区は大きな被害があった地区の一つだ。

 公園で一晩過ごし、自宅に戻ると、自宅は焼失していた。煙がくすぶり続け、茶わんは溶けて変形していた。通っていた奈良屋国民学校(現在の福岡市立博多小)に到着すると、廊下にずらっと遺体が並んでいた。校庭には遺体が担架で次々と運ばれ、焼かれていた。「今見たらたまらんでしょうけど、そのときは感覚がまひしていた。何が何でも戦争は嫌ですね」

■地下室で60人以…

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