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 その死を殉職と呼ぶ人もいる。1959年8月11日。夏の甲子園大会で日大二(東京)との初戦に臨んだ戸畑(福岡)の直村鉄雄監督(当時42)は甲子園のベンチで倒れ、4日後に帰らぬ人となった。

 「試合前のノックを任され、おかしいと思った。福岡大会後から体調を崩していたが、これほど悪かったとは」。病院でみとった戸畑OBでコーチだった矢野徹さん(83)は悔やむ。甲子園に向かう列車内からの高熱を押して、指揮していた。化膿(かのう)性髄膜炎だった。

 打倒小倉に燃える直村監督は「鬼」と呼ばれ、厳しい練習で震え上がらせた。重盗など勝負勘の鋭い戦術が持ち味の直村監督は、とにかく走らせた。西鉄ライオンズでプレーした村山泰延さん(81)は、帰りが毎日遅いのを父親にたしなめられた。「暗いのに野球なんかできないだろ」。遊んでいると疑われるほどだった。月明かりの下でランニングは続いた。

 直村監督が注視していたのは、練習に取り組む姿勢だった。

 「頑張ってる奴(やつ)は何か持ってる」

 一生懸命さを見せる選手をベンチに入れ、ここぞの場面で代打に送った。温情ではない。「逆転したこともあった」と、矢野さんは振り返る。

 矢野さんや県高野連理事長を務めた故・末武幸雄さんは教員となり、戸畑商(当時)に異動。末武さんが監督、矢野さんが部長に就いた。「頑張ってる奴」を起用するスタイルは引き継ぎ、教え子である元ダイエーの山本和範さん(61)が二度の戦力外通告を受けながらも、ひたむきな練習態度を買われて復帰した姿に、高校時代を思い出したという。

 最後の教え子として、直村監督の没後に夏の甲子園に出場した真鍋和正さん(75)は、監督の末娘の恵津子さん(68)と結婚。自宅には芯の部分がえぐれる使い込んだ木製ノックバットがある。鬼監督と優しい父、二つの顔を知る夫妻は「病に伏せる姿は選手にみせられなかったと思う」としのぶ。遺品はその功績や命がけで野球に取り組んだ生き様を雄弁に物語る。(渋谷雄介)