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 甲子園の大舞台、延長十五回裏。熱戦に終わりを告げる打球が左側を抜けていった。終わった。一瞬の静寂の後で胸に去来したのは「なぜ、あの時あきらめたのか」。打球に飛びつくこともなく、ただ見送った。飯塚(福岡)の吉田幸彦監督(63)は今も、その答えを出せないでいる。

 1973年の夏の甲子園大会の名勝負でもある、柳川商(現・柳川)と作新学院(栃木)の一戦。主将だった吉田監督は柳川商のショートを守っていた。

 「(サヨナラ中前打の)映像を見るが、飛び込んでも捕れない打球だった」。だが、最高の舞台で最後の最後に最善を尽くさなかったのか、いや、尽くせなかったのか。「なぜだ」。

 大学では神宮大会、社会人野球の東芝では都市対抗にも出場。日の当たる場所を歩いた選手生活だったが、「甲子園で迎えた最後の場面だけは、何度も夢に出てくる」。

 引退後、東芝の営業部長にまで昇進した。46歳の時に、その地位を捨て、高校野球の指導者に転じる決断をした。甲子園に「忘れ物」を取りに行く気持ちがそうさせたのかもしれない。2003年から指揮を執る飯塚で、選手たちに失敗談を伝える。あの場面の映像を見せ、自問したことを打ち明ける。「今でも後悔している。お前たちには、そんな思いはしてほしくない」と、全力を尽くす大切さを説く。その信念が浸透したかのように、5年後の08年、福岡大会を初めて制し、筑豊地区からは28年ぶりに夏の甲子園への扉をこじ開けた。原動力となった、当時エースの辛島航さん(28)は「全体練習の後も自主練習する同級生が多かった」と振り返る。

 辛島さんはこの年、楽天イーグルスから6位で指名を受けた。「なぜ、あの時あきらめたのか」――。プロ入り後も吉田監督が自責の念を込めて唱えていたあの言葉が背中を押す。今季は開幕から先発ローテーションを守り続け、首位争いを演じるチームを支える。

 「もう10年以上が過ぎるけど、吉田監督の言葉は、いつまでも自分の中で生きている」(渋谷雄介)