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 タイヤに向かってバットを振る部員たちを見守る姿に威圧感はない。27歳の新米監督。宇賀神健人さんは10年前、泥だらけになって同じグラウンドを駆け回っていた。

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 選手時代から「親子」というフレーズが付いてまわった。現部長の父・修さん(65)は葛生時代から約40年間、青藍泰斗(栃木県佐野市)を率いてきた。1990年夏には初の甲子園出場を果たす。

 自宅は群馬県太田市にあったが、父はずっと野球部の寮住まい。父から「青藍に来い」と言われたことはなかったが、「青藍の試験はいつあるぞ」と言ってきた。迷わず父の学校を選んだわけではない。それでも甲子園に行きたい気持ちが勝り、割り切った。

 小さいころから、父は言葉が少なく、怖い存在だった。同じ寮に住んだが、あくまで監督だった。最低限の指示しかしない。それでも威圧感があり、みんな緊張しながら必死についていった。怒られた記憶しかない。耐える日々だった。

 監督の息子だからと色々言う先輩もいた。人間関係で悩み、何度も退部しようと思ったが、その度に同級生に支えられた。

 駒沢大の野球部に入ったが2年で退部。「将来は市役所勤めでも」と思ったこともあったが、教職課程は受け続けた。大学4年の教育実習は青藍の教壇に立った。同じ夏、青藍は栃木大会の決勝に進んだ。

 バックネット裏から試合を見守った。2―1でリードした青藍は九回表2死まで作新学院を追い詰めていた。2回目の甲子園はすぐ目の前だった。しかし死球から逆転を許し、あっけない幕切れとなった。ぼうぜんした表情で立ち尽くす父から目が離せなかった。

 「父のためにも、母校のためにも、甲子園に行かせてあげたい」。強い思いが自然とわき上がった。卒業後、公民の教員として母校に戻った。

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 母を実家に残し、再び父との寮生活が始まった。5年間の野球部長を経て、昨年9月、監督に就いた。

 教師と教師、監督と部長として接した父は仰ぐ存在ではなくなっていた。緊張することもなかった。新しい父の姿を見るような気がした。息子を気遣い、裏方仕事を率先してやってくれるようになった。

 「選手と監督の距離が遠かった」。高校時代を振り返り、父を反面教師にしたチーム作りも進める。盛んに選手に声をかけ、ヒントを与えて、選手自身に戦い方を考えさせる。健人さんの理想は指導者がいなくても戦えるチームだ。塁に出たら次の塁をどんどん狙う積極的な野球が、少しずつできるようになってきた。

 「監督になって改めて父のすごさも思い知った。40年はすごい。でも父と全く同じ野球はできない。それじゃ甲子園に1回しかいけないから。夏に新生・青藍泰斗を見せます」