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 5月の週末。岡山共生(岡山県)の中堅手、黄大祐(ファンダーヨー)君(3年)は同校での練習試合が始まる前に、対戦相手の監督から呼び出された。

 出雲西(島根)の野中徹博さん(54)。愛知・中京(現中京大中京)のエースとして甲子園を沸かし、1983年のドラフト1位で阪急ブレーブスに入団。中日、ヤクルトと渡り歩いた。

 「お父さんとそっくりだ」。野中さんは監督室で、黄君の顔を見るなり、そう切り出した。

 1990年代前半は台湾へ渡り、現地のプロ野球チーム「俊国ベアーズ」でプレーした野中さん。その頃に試合前のブルペンで球を受けたのが、プロ野球選手だった黄君の父・文明さんだった。

 「控え捕手で僕たちを支えてくれた。よくご飯を一緒に食べにいった」「日本語が少し話せてね。誰にでも優しい気さくな人だった」。野中さんの思い出話に花が咲いた。

 単身で来日し3年目。異国の地でまさか父の話を聞くとは思っていなかった。これまで知らなかった父を知り、胸が熱くなった。「不思議な感じですよね。うれしかった。父に近づくため、もっと野球を頑張ろうと思った」

     ◇

 小学4年で野球を始めた時。プロ野球を引退し、大学のコーチをしていた父は毎日、練習場へ車で送り迎えしてくれた。

 「練習はどうだった?」「うまく打ててるか」

 息子の上達をいつも気にかけ、帰宅後は素振りに付き添った。タオルで送球フォームをチェックしたり、2人並んで走り込みに出たり。「今思えば、本当に僕にうまくなってほしかったんだろうなと」

 11歳だった2012年3月26日。いつもは来ない母が、練習場へ迎えに来た。胸騒ぎを覚えたが怖くて聞けなかった。母が父の死を告げたのは、帰宅後だった。

 49歳、心筋梗塞(こうそく)。いつものように息子を練習場へ迎えに行こうと、入浴後に着替えをしていて突然、倒れたという。

 ショックが大きすぎて、その時のことはよく覚えていない。父を思い出すのがつらすぎて、黄君は野球から離れた。

     ◇

 半年ほど過ぎた。「一緒に野球しないか」。移り住んだ父の実家近くで、地元の野球チームの監督が自宅まで来て熱心に誘ってくれた。

 「なんで僕なんか」。義理のつもりで見学に行ったところ理由が分かった。このチームはかつて父がプレーしたチームで、監督はそれを知っていたのだ。ここならお父さんとまた野球ができる――。再び白球を追う日が始まった。

 中学に入り、インターネットでたまたま見た甲子園の熱戦の動画。父が繰り返していた言葉をふと思い出した。「おれもコウシエンで野球をしたかった」「コウシエンに出られれば、日本のプロ野球選手になれる」。岡山共生への留学を決めたのはその頃だ。台湾を離れる前に墓前で誓った。「お父さんを超える選手になってくるよ」

 それから3年。日本語の壁も克服し、俊足強打の外野手に成長した。凡打でも力を抜かず一塁を走り抜け、ベンチに戻っても人一倍、声を張り上げる。そんな姿を、森下雄一監督(56)は「覚悟といえばいいのか、野球への強い気持ちが彼にはある」と評す。

 黄君の思いは一つ。「お父さんに『これが俺の息子だ』と自慢してもらう」。最後の夏、亡き父に甲子園を見せたい。(華野優気)