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 異例の控訴見送りだった。ハンセン病家族訴訟で政府内の反対にもかかわらず安倍晋三首相が決断した背景には、18年前の小泉政権時代の経緯もある。だが、ほかの訴訟への影響や今後の補償のあり方など課題は多い。

 9日朝の首相官邸。安倍首相は、根本匠厚生労働相や山下貴司法相と協議し、控訴しない方針を伝えて対応を指示した。協議後、記者団の前に姿を見せた安倍首相は、ゆっくりとした口調で話し出した。

 「異例のことではありますが、控訴をしないことといたしました」

 熊本地裁の判決は国の責任を広く認定し、初めて患者家族に対する賠償を命じた。ハンセン病患者や家族の対応をする厚労省も訴訟の対応窓口である法務省も、役所の論理では控訴して高裁の判断を仰ぐのが既定路線だった。加えて別の患者家族が起こしている訴訟が最高裁で係争中でもあり、熊本地裁判決を控訴せず確定させるのは困難という見方が大勢だった。

 12日の控訴期限が迫る中、最終調整は首相官邸に委ねられ、「論じなければならない点がたくさんある」(官邸幹部)として控訴する方向で準備が進む。一方、家族に対する人権侵害は認めざるを得ず、「なにか患者家族の思いをくみ取る方法はないか」(政府関係者)と検討した結果、浮上したのが家族への経済支援だった。だが、8日時点でも「びっくりするような変わったことをするのは難しい状況」(厚労省幹部)として、控訴すべきだとの大勢は変わらなかった。

過去にも大きな政治判断

 ハンセン病をめぐっては、過去にも大きな政治判断があった。2001年5月、ハンセン病患者への隔離政策をめぐり国が敗訴した訴訟で、当時の小泉純一郎首相が政府内の反対を押し切って控訴しないことを決断。元患者と直接面会し、のちに元患者に補償金を支払う「ハンセン病補償法」が成立した。

 安倍首相は当時の官房副長官。首相周辺は「小泉首相の時に副長官としてそばで見ていたから、ハンセン病に対する首相の思い入れは強い」と明かす。

 参院選が公示される前日の3日、安倍首相は日本記者クラブ主催の党首討論会で、「患者や家族の皆さんは人権が侵害され、つらい思いをしてこられた。我々は、本当に責任を感じなければならない」と踏み込んだ。官邸内では流れが変わったと感じ取る人もいた。それでも官邸幹部は「控訴しない方向で検討を、という意味ではなく、いろんな状況を勘案してくれということだ」と解説した。

 9日午前2時ごろ、NHKは「政府が控訴断念へ」とネットで報じる。その7時間近く後、首相が控訴しない意向を表明。その後、菅義偉官房長官は記者会見で「筆舌に尽くしがたいご経験をされたご家族の皆さま、そのご苦労をこれ以上長引かせるわけにはいかない。そういう思いの中で、総理は異例のことではあるけれども控訴しないと判断した」と説明した。

 小泉元首相が控訴断念を決断した直後の朝日新聞の世論調査では、内閣支持率が過去最高の84%を記録した。安倍首相は副長官としてこの「成功体験」を目の当たりにしている。ある閣僚経験者は「間違いなくマイナスになることはないだろう」と言う。

政府内に反対意見 控訴準備も

 「控訴せずに確定させるべきではない」。政府内にはこうした意見が根強かった。山下法相も会見で「異例の措置」と繰り返した。

 熊本地裁が01年5月、国に元患者らへの賠償を命じて政府が控訴を断念した際には、約1カ月後に補償金支給に関する法律が施行された。さらにひと月後には、原告側との和解の基本合意書に調印した。

 家族への賠償を命じた今回も、厚労省は控訴見送りの政治判断にも備えて、水面下で準備を進めてきた。だが、「今後のことは白紙だ」と厚労省幹部は話す。

 判決では、02年以降に差別被害が明らかになった原告の請求は棄却した。02年以降は家族の偏見差別に対する隔離政策の影響は大きくないとの判断からだ。一方、01年以前は被害を広く認定した。実際に差別体験があったと認められなくても、結婚や就職などで差別される恐怖や心理的負担があれば対象とした。

 補償の仕組みを作るうえで、こうした被害や家族の範囲など詰める点は多い。さらに、根本厚労相は判決に「法律上の重大な問題」があると強調した。

 ポイントの一つが、国に賠償請求する権利が、どの時点まで存在するかの解釈だ。権利を失う時効は、民法上は不法行為を知ってから3年。不法行為をいつ知ったのかが争点になった。

 ハンセン病患者を母に持つ男性が10年に起こした訴訟(最高裁で係争中)では、一審の鳥取地裁は、男性が国と元患者の遺族らが和解の基本合意書の合意を02年に認識しているとして、02年を不法行為を知ったときと認定。男性が求めていた母親への国家賠償請求については、提訴時に3年の時効が過ぎていると認定した。

 一方、今回の熊本地裁での集団訴訟では、時効にはあたらないと判断した。提訴は、鳥取地裁の判決がきっかけで、この判決が出た15年を不法行為を知った時点と認めたためだ。厚労省幹部は「一般的な法律上の解釈とは異なる」と指摘する。

 こうした判決が確定することについて、根本厚労相は隔離政策などのハンセン病の特殊性を強調し、「他の事案に単純に波及するとは考えていない」と話す。ただ、厚労省は多くの訴訟を抱え、影響を与える可能性もある。

 「被害者の思いが政治を動かした」。旧優生保護法の下で障害のある人らに行われた不妊手術問題の被害弁護団の一人は、今回の判断を歓迎する。4月に一時金支給法が成立し、被害者本人に一時金の支給が始まった。弁護団は今、家族への救済も求めている。「我々も家族をつくる権利の侵害を訴えてきた。その点を認めた熊本地裁判決が、こちらにも好影響になってほしい」