拡大する写真・図版インタビューの質問に考えを巡らせる広島県の湯崎英彦知事=2019年7月5日午後、広島県庁、上田幸一撮影

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 平和記念公園一帯はかつて、住宅や店舗がひしめく広島屈指の繁華街だった。一発の原子爆弾が奪い去った人々の命や記憶、つながり。そんな一つひとつを丹念に調べ上げた社会学者がいた。湯崎稔・元広島大教授(1931~84)。調査結果の出版からちょうど半世紀。次男は今年も8月6日に、広島県知事としてその地に立つ。(宮崎園子

 7月7日、広島市中区の平和記念公園の一角で、発掘調査の見学会があった。数十センチ掘り下げたところから、イグサやワラの付いた床板が出てきた。「屋根が落ちて蒸し焼き状態になったようだ」と専門家が分析。材木店を営んでいた「加藤さん」宅の場所ではないか、と見立てた。

 公園一帯にはかつて、住宅街や商店が立ち並び、約1300世帯約4400人が暮らしていたとされる。その一つひとつにどんな人が住み、どんな生活が営まれ、人生がどう変えられたか――。広島大原爆放射能医学研究所(現・広島大原爆放射線医科学研究所)の助手だった湯崎は考えた。

爆心地周辺の地図、復元へ

拡大する写真・図版平和記念資料館本館に展示されている旧中島地区の銅板製の復元地図=2019年4月24日午前、広島市中区、上田幸一撮影

 テレビ局などを巻き込み、爆心地周辺の当時の様子を復元する運動を進めた。学生らと元住民を訪ね歩き、少しずつ白地図を埋める地道な作業だった。その成果は1969年7月20日、「原爆爆心地」(志水清編、日本放送出版協会)として世に出た。

 「『唯一の原爆被災国として……』という言葉はよく使われる」が、「世界に訴えるべき基本的データをもっていない」「いったい広島・長崎は、今日何によって核時代の証人を名乗るのか」。冒頭にはそんな言葉が記されている。

 復元作業の試みについて、同書はさらにこう説明する。「核抑止力」のもと核兵器が蓄積され続け、「核の脅威は世界のどこの国のだれの上にも及び、だれもが逃れることのできない核の呪縛の下におかれている」。だからこそ、広島で何が起きたのかを永久に残すことが必要だ、と。

 今年4月に展示がリニューアルされた広島平和記念資料館本館には、湯崎らの調査をもとに銅板で作られた旧中島地区の復元地図(縦4メートル、横3メートル)が再び掲げられた。

引用してきた父の言葉

拡大する写真・図版昨年の平和記念式典であいさつする湯崎英彦知事=2018年8月6日午前8時38分、広島市中区、小林一茂撮影

 カフェーやシネマ、銭湯――。かつての「日常」がびっしりと刻まれている銅板が見下ろす原爆死没者慰霊碑前で、今年も8月6日に、湯崎の次男英彦は県知事としてあいさつする。

 2009年の就任以降、父が残…

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