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 戦時下の大陸を舞台に中国人・李香蘭の名で一世を風靡(ふうび)した日本の元女優、山口淑子さん(1920~2014)。死去から5年がたつのを前に、未完に終わった晩年のインタビューの公開を遺族が了解した。敗戦から今夏で74年。山口さんは、戦前・戦中の記憶の数々を、平和への思いと共に語っている。

 「バカな戦争でした。どれだけの人の命を奪ったことか。特に若い人の命を……」。旧満州(現・中国東北部)で生まれた山口さんは、ため息をついた。朝日新聞が所蔵する戦前・戦中の大陸の写真を見て、思い出を語る取材だった。

 山口さんは、国籍を隠して「日本語の得意な中国人女優」の触れ込みで満州映画協会(満映)で活躍。敗戦後は日本に戻って本名で女優活動を再開し、シャーリー・ヤマグチの芸名でハリウッド映画にも出演した。チャプリンやジェームス・ディーンとも親しく、54歳から自民党参議院議員を3期務めた。

 大陸で自分が演じた役回りに、戦後も複雑な心情を抱いていた。

 北京の女学生だった1936年、友人と抗日集会に参加して「日本軍が北京に攻めてきたら」と問われると、「城壁の上に立ちます」と答えた。日中両軍の「弾のどちらかに当たり、私が一番先に死ぬだろうし、それが一番自分にふさわしい」と考えていたという。

 同じく日中のはざまで過酷な運命をたどったもう一人の「ヨシコ」を終生、気にかけていた。清朝の王族ながら軍服姿で日本の諜報(ちょうほう)活動に身を投じ、「男装の麗人」と呼ばれた川島芳子(1907~48)だ。

 川島は日本人と養子縁組していたが、敗戦後に公的書類でそれを証明できず、漢奸(かんかん)(売国者)として銃殺された。一方、山口さんが帰国できたのは、戸籍で日本国籍が証明されて処刑を免れたからだった。

 山口さんはインタビューで、川島がまだ清王朝家の王族で9歳だった時の写真を見て、こう語った。「清朝の血筋を引きながら日本人として育てられた彼女は中国籍のため処刑され、中国人名で活動していた私は日本国籍が証明されて生き残りました。戸籍という紙切れ1枚が、2人のヨシコの運命を分けたのです。時代の残酷さを感じずにはいられません」

 山口さんは2007年10月からインタビューに応じた。2008年2月の3回目の取材直後から入退院を繰り返すようになり、2014年9月に死去した。

 本人が校正してから公表する約束で計127枚の写真にコメントを残したが、このたびインタビュー時の録音データを含めて公開することに遺族が同意した。(編集委員・永井靖二)

李香蘭が語るアジア 晩年のインタビュー公開
朝日新聞が所蔵する戦前・戦中の写真127枚をもとに、李香蘭こと山口淑子さんがあの時代の胸中を語っていました。

李香蘭とは

 1920年2月12日生まれ。父は南満州鉄道株式会社(満鉄)で社員に中国語を教えており、幼少時から中国語の特訓を受けた。

 38年、満州映画協会の女優・李香蘭としてデビュー。日満親善の象徴として、長谷川一夫と共演した「白蘭の歌」「支那の夜」「熱砂の誓ひ」は、東宝の「大陸3部作」と呼ばれた。歌手としても「夜来香」などが大ヒットした。

 戦後は黒沢明監督の作品などに出演。50~56年は米国に滞在し、芸術家のイサム・ノグチと一時結婚していた。69年からテレビ番組の司会者になり、ベトナム戦争や中東問題の報道に力を入れた。

 74~92年、参議院議員を3期務めた。95年から、「アジア女性基金」理事として、元慰安婦に補償金を手渡す作業にも関わった。

 「二〇世紀アジアが生んだ、もっとも重要な女性」――。論考集「李香蘭と東アジア」(四方田犬彦編)は、中国の映画監督・陳凱歌のそんな言葉を収録している。

「目の前で額割れて鮮血が」 李香蘭、晩年に語った大陸
応接室には1枚の絵が掛かっていた。梅原龍三郎が描いた中国服姿の彼女だった。