憲法学者が考える不自由展中止 自由を制約したのは誰か
あいちトリエンナーレの企画展「表現の不自由展・その後」が中止に追い込まれた。憲法が保障する「表現の自由」の問題として考えた時に、どのような意味があるのか。行政による文化芸術活動への助成に詳しい慶応大学の横大道聡(よこだいどうさとし)教授(憲法学)に聞いた。
「誰の」表現の自由が、「どのように」制約されたのか
――今回の件は、どこに注目していますか。
「<誰の>表現の自由が、<いつ><誰によって><何を理由として><どのように>制約されたのかを整理しなければ、問題の核心・焦点がぼやけてしまうと思います」
――まず、「誰の」表現の自由が「どのように」侵害されたのでしょうか。
「影響を受けた可能性がある主体として、大きく分けて、①展示作品の製作者②不自由展担当の実行委員会(民間のメンバー)③作品を見られなかった観客④社会全体の四つを考えることができます」
「もともと表現の自由は、戦前のように政府批判をしたら逮捕されるなど、あからさまでわかりやすい圧力を想定したものでした。基本的な発想は、刑事罰などによって、表現活動を妨げられないということです。一方で表現の自由は、発表の機会を提供したり、作品を購入・展示したりすることまで、行政に義務付けるものではないというのが、判例や憲法学の通説的な理解です。そのため、不自由展を担当した実行委員会や展示作品の作者の『表現の自由』の問題であるとする議論の立て方は、少なくとも裁判では、簡単には通用しないと思います。自分のお金・時間・場所で同じ表現を行うことは何も規制されていないからです。誰かがお金を出さない、場所を貸さないなどの微妙なやり方で表現の自由に対して影響を与えようとしてきたとき、それを直ちに表現の自由の侵害ということは困難を伴います」
――法的には「表現の自由」の問題ではないということですか。
「『表現の自由』が保障する…

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