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夏の甲子園101回大会で優勝した履正社の監督 岡田龍生さん(58)

 大切にしてきたのは、生徒の自主性だ。気づかせてくれたのは、18年前の経験。指導に熱をあげるばかりに、生徒にふるってしまった暴力とその気づきが、今の履正社を作り上げる原点となった。

 併殺打で初の全国制覇が決まると、ベンチ前で部長や記録員ときつく抱き合った。「選手が本当によくやってくれた」。日焼け顔に、白い歯がこぼれた。

 大阪府出身。東洋大姫路(兵庫)から日体大、社会人野球を経て1987年に履正社の監督に就任した。当時の部員は助っ人を含め11人。学校名も読んでもらえなかった中でのスタートだった。そこから生徒に手をあげることもある徹底的なスパルタ指導で強化し、97年夏に初の甲子園出場を果たす。

 だが、4年後の2001年、ミーティングで部員を殴り謹慎処分に。「あの頃と同じだ」。指導法を顧みたとき、自分が嫌だったはずの高校時代が重なった。高3春に三塁手、主将として選抜大会で4強。でも、良い思い出は「甲子園の4試合だけ」と振り返る。練習は厳しく、「監督に怒られないためにどうするか」と常に考えていた。

 絶対的な上下関係で従わなければしかる。その指導が、本当に正しいのか。自分が高校野球を楽しめなかった分、「教え子にはそうなってほしくない」と、グラウンドを離れた半年間、指導法を練り直した。

 部員が思いを伝えやすいようにと、話をするときは呼びつけるのをやめ、歩み寄って声をかけるようにした。少しずつ、部員の意識が変わっていくのを感じた。自分のプレーに足りないのは何か、なぜ評価されないのか。対話を重ねることで自ら考える姿勢が選手に浸透した。松平一彦部長(42)は「謹慎を経て、生徒がわかるまで何度も話をするようになった」と話す。

 その雰囲気にひかれ、入学する選手も増えた。主将の野口海音(みのん)君(3年)は「プロや社会人で野球をするため、自分の課題や長所を考えながらプレーする癖を身につけたかった」と、履正社への進学を決めた。野口君は「監督に学んで、間違いなかった」。

 「すごく怖い人」。記録員の曽場大雅君(3年)は入学前、そんなイメージを持って入学した。だが、岡田監督が自らグラウンドの雑草を抜いたり、木を切ったりする姿に「一緒に野球をしてくれている、とても身近な監督」と親しみをもつようになった。

 冬は1カ月ほどかけて、保護者の面談もする。指導や選手の起用法について考えを伝え、協力を求めた。寮がない学校で、保護者に「家庭でのコーチになってもらいたい」。そんな思いもあった。

 大阪では「2強」と称されるが、強敵の大阪桐蔭に実績で水をあけられてきた。監督として32年、春夏通算12回目の甲子園でようやくたどり着いた頂点。「本当に夢のようですね。泣くことはないと思っていたのに」。目に涙を浮かべながら、笑った。(山田健悟)