高橋幸宏さん(63歳)
ドッドッドッドッ。
男の子の小さな心臓が、力強く脈打っている。心筋保護液が注入されると、脈拍はゆっくりと落ちていき、やがて完全に動きを止めた。人工心肺が回っている。
「今何分だ?」
心筋保護液1回分が持続するのは20分。時折時間を気にしながら切り、縫う。素早い動きに、器具を渡す「器械出し看護師」の手が追いつかない。手のひらをクイクイと動かし、器具を早くと要求する。
張り詰めた空気が手術室を包む。余計な言葉は一切発しない。医師や看護師への指示も、ささやくような小さな声。病児の親たちの間で有名な「ウィスパーボイス」だ。
執刀開始から1時間半後。縫合を前立ち(助手)の医師に任せ、手術台の前から離れた。「ミスタークイックサージャリー」の手技は、きょうも冴(さ)えていた。手術は大成功。重度の先天性心疾患だった男の子は、翌日には集中治療室(ICU)を出て、病棟に移った。
循環器専門病院、榊原記念病院。国内トップレベルの年間500件を超える子どもの心臓手術で、98・7%の成功率を誇る小児心臓血管外科を30年以上引っ張ってきた。
手術などによって患者にかかる負担のことを「侵襲」という。外科医になって以来、「いかに手術を低侵襲化するか」に心を砕いてきた。「外科医が巧(うま)く、短時間で手術を終えれば、それだけ低侵襲になる」。手術の腕を上げるには? 「手術全体の動き、『流れ』を把握すること」。「流れ」をつかむために、新人時代からひたすら手術室に居続け、先輩の動きを見つめてきた。
さらに、人工心肺などの「体外循環」は、炎症などの侵襲を子どもに与える。人工心肺の中を通る血液ができる限り少なくなるよう研究、メーカーとともに超小型の人工心肺を開発した。輸血も、未知のウイルスに感染する危険性があるとの考えから、世界に先駆けて無輸血手術に挑んできた。
これまでに救ってきた子どもは約7千人。重度の心疾患を抱える子の親の間で「執刀は高橋先生?」はよく交わされる会話だ。
今年5月、初めて患者向けの講演会を行った。取材も受け始めた。これまでほとんど講演や取材の依頼を受けず、手術に専念してきたのに……。「とうとう、手術室から退いてしまうのでは」。親たちの間に、動揺が広がっていった。
その手術をやる「資格」はあるか?
――これまで取材や講演依頼をほとんど受けてこなかったのに、今年に入ってからいくつか受けていますね。手術から引退してしまうのではと、親たちは心配しています。
うわさになっているそうです…