[PR]

沿道にびっしり 国民が祝福

 全国民が注目する国際結婚だった。1937(昭和12)年4月3日、「満州国」皇帝愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ)の弟溥傑(ふけつ)(当時29)と、嵯峨侯爵(さがこうしゃく)家の長女浩(ひろ)(同23)の結婚式が、盛大に行われた。媒酌人は元関東軍司令官の本庄繁が務めた。

 その日、浩は祖父宅である東京都杉並区の嵯峨公勝邸(現杉並区立郷土博物館)から、式場の軍人会館(後の九段会館)まで車で向かった。同博物館の元職員久保田恵政(しげまさ)さん(90)は、90年の浩の特別展の際、沿道の様子を調査した。「嵯峨邸前から今の方南通り、環七通り、青梅街道の途中までは、沿道にびっしり小学生らが並び、日満の国旗を振って祝福したようです」と話す。

 久保田さんの姉(93)は、黒塗りの自動車の列を記憶していた。「車の中には王朝装束に『おすべらかし』の、あでやかな浩さんのお姿があった」と話したという。

 車で「パレード」の道を走ってみた。方南通りの両脇には、マンションなどが立ち並ぶ。当時は一軒家や商店が多かったのか。35分ほどで皇居に近い九段会館(建て替え工事中)に着いた。人々の祝福を受けながら、浩の胸には様々な思いが去来しただろう。

 浩は、自伝『流転の王妃の昭和史』で、こうつづっている。「沿道の風景だけははっきりと瞼(まぶた)に焼きつき、終生私への無言の励ましとなってくれたのでした」

 浩は、絵画や書を好む快活な女性だった。運命が大きく変わったのが、22歳のころ。元々満州は、関東軍が清朝最後の皇帝だった溥儀を、名ばかりの皇帝に据えた「傀儡(かいらい)国家」だった。関東軍は満州でのプレゼンスを高めようと、終生子どもを持たなかった溥儀に代わり、溥傑と日本の皇族に近い女性を結婚させようと画策し始めた。浩の祖母は、明治天皇の生母のめいだった。

 溥傑は、日本の陸軍士官学校を卒業、千葉市の陸軍歩兵学校で学んでいた。本庄が溥傑に、お見合い写真を十数枚見せたところ、浩を選んだという。本庄は36年11月、浩の父、実勝の邸宅を訪問。「溥傑の后(きさき)への内定」を伝えた。

 突然の知らせに嵯峨家は大騒ぎになった。だが軍部が力をもつ当時の社会状況で、この縁談を断るのは難しい。浩も、覚悟を固めていった。ただ揺れる心を通っていた画塾の親友には打ち明けている。「本当ハもつともつと平凡な結婚がしたうございました」

 「政略結婚」ではあったが、溥傑に何度か会い、その優しさにふれるにつれ、徐々に信頼を寄せていった。

写真・図版

 新婚時代の半年間を過ごしたのは、千葉市の稲毛海岸だった。今は埋め立てられているが、目の前が海だった。

 「母は生前、『稲毛ではハマグリやアサリを拾って、おつゆにした』と話していました。とても楽しかったようですよ」と、次女の福永嫮生(こせい)さん(79)が教えてくれた。

 溥傑もこの地について、「思い出すとつい我を忘れてしまうほど幸せだった」と詩にうたっている。

 互いに尊敬し合い、愛を育んだ穏やかな日常。2人はまだ、この後に訪れる過酷な運命を知るよしもなかった。

新京(現長春)で暮らし始めた浩と溥傑。しかし終戦で運命は反転、流転の日々を送ることになる。

■「私、こちらに残ります…

有料会員限定記事こちらは有料会員限定記事です。有料会員になると続きをお読みいただけます。

有料会員限定記事こちらは有料会員限定記事です。有料会員になると続きをお読みいただけます。

有料会員限定記事こちらは有料会員限定記事です。有料会員になると続きをお読みいただけます。

有料会員限定記事こちらは有料会員限定記事です。有料会員になると続きをお読みいただけます。

980円で月300本まで有料記事を読めるお得なシンプルコースのお申し込みはこちら